前述の通り、ディベートとディスカッション、あるいはディベートと単なる議論とは厳密には意味内容が異なるものだが、これらを区別しないで「ディベート」ないし「討論」と呼ぶケースも非常に多い。各種のメディアなどで、一般に「ディベート」ないし「討論」と呼ばれる議論の中には、ディスカッションと呼ぶしかないものや、ディスカッションと呼べるかどうかすら怪しいものも散見される。例えばテレビメディアでは、「新BSディベート」(NHK衛星第1テレビジョン)[8]が前者の意味で、「ディベートファイトクラブ」(BSフジ)[9]が後者の意味で、それぞれ「ディベート」という言葉を用いている。前述の通り、このような最広義のディベートについては、誤った語法でありこれを認めるべきでないとする見解も強く主張されている[10]。
何らかの教育を目的として行われるディベートを教育ディベートという。アカデミックディベートとも呼ばれる。教育ディベート関係者の間では、教育ディベートを単に「ディベート」と呼ぶのが通例である。
教育ディベートの本質的な目的の一つにアーギュメンテーション(argumentation)教育があることについては、教育ディベート関係者の間で広く合意が形成されている[11]。アーギュメンテーションとは、議論過程(process of arguing)ないし議論学(study of argumentation)を意味し[12]、その教育には論理学と修辞学の要素を含む。このことから、教育ディベートはアーギュメンテーション理論の壮大な実験場であるともいわれる。なお、アーギュメンテーション教育の副次的効果としては、一般に以下のようなものが挙げられる[13]。もっとも、このような副次的効果を過度に強調することには懐疑的な立場もある[14][15]。
問題意識を持つようになる。
自分の意見を持つようになる。
情報を選択し、整理する能力が身に付く。
論理的にものを考えるようになる。
相手(他人)の立場に立って考えることができるようになる。
幅の広いものの考え方、見方をするようになる。
他者の発言を注意深く聞くようになる。
話す能力が向上する。
相手の発言にすばやく対応する能力が身に付く。
主体的な行動力が身に付く。
協調性を養うことができる。
以上のような目的のため、教育ディベートの議論形式には必要に応じて以下のような制約が設けられる慣習がある[16]。
勝敗の決定:第三者(専門の審査員など)によって勝敗を決定する
役割の分担:参加者の意思とは無関係に役割(肯定側・否定側など)を分担する
準則の設定:議論において守るべき多くのルールが設定される。
勝敗を決定すれば自ずとディベートは競技の性格を帯びるため、教育ディベートの多くは競技ディベートとして行われる。また、役割を任意に設定して人格と議論とを分離させる場合は、現実社会に影響を与えることを目的としないものになるのが普通である。しかし、これらの制約は、飽くまで特定の教育目的のために慣習的に採られてきたものに過ぎず、理論的には教育目的に応じて制約を外したり追加したりすることも考え得る。実際、教育ディベートの現場では、勝敗の決定を行わない試みもなされているし[17]、一種の言論教育として人格と議論とを一致させるという試みもあり得るところである[18][19]。
前述の通り、教育ディベートの原型は既に古代ギリシアで見られるが、現在、世界各地で実践されている教育ディベートの多くは、英国と米国の学校教育のなかで、それぞれ独自に発達してきたものである。英国式のディベートと米国式のそれとの違いは、両国の議論文化の違い、ひいては国民性の違いを反映して好対照をなしている。一般的な傾向としては、修辞的要素を重視する英国に対し、論理的要素を重視する米国、という図式化がなされることが多い[20]。
両国における教育ディベートは、いずれも多数の著名な政治家・法曹・学者・ジャーナリストを輩出しており、その意味では日本における弁論部と同じような役割を担ってきたと言える。英国では、ケンブリッジ大学で1820年代に結成されたケンブリッジ・ユニオンをはじめ、オックスフォード大学のオックスフォード・ユニオン、その他イングリッシュ・スピーキング・ユニオンなどが各種のディベート大会を主催している。また、米国の大学では、ディベートの課外活動に単位を与えたり、ディベート大会で優秀な実績を残した学生に学費全額免除を含めたディベート奨学金を出したりする例も見られる。 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
本格的な教育ディベートは、福澤諭吉によって初めて日本にもたらされたとするのが定説である[21]。福澤は「debate」の訳語に「討論」という日本語を当て、日本に広く普及させるとともに自ら実践した。1873年(明治6年)に福澤が行った日本初の教育ディベートの論題は「士族の家録なるもの、一体プロパーチーであるか、サラリーであるか」だったとされている[22]。討論は、この頃から学校教育で課外活動として位置づけられはじめ、旧制中学においても1877年頃から各種の討論会が行われはじめる[23]。こうした教育ディベート活動は、1897年以降には多数の理論書も出版されるなど隆盛を極めるが、大正時代に入ると戦渦に巻き込まれ徐々に衰退し、やがて消失してしまう[24]。
戦後に入ると、冠地俊生らによって再び教育ディベートの必要性が叫ばれるようになり、再び各地で活発な討論会が開催されるようになる[25]。1946年から1950年にかけて朝日新聞が主催した「朝日討論会」は、延べ参加校642校という大規模なものであった。その後、1950年には、全関東大学討論会(全関東学生雄弁連盟主催)、英語ディベート大会(国際教育センター主催)が開催される。