爆発が起こったのは第一次世界大戦やロシア革命の数年前、かつ日露戦争を終えて間もなくという時期だったことから、社会は非常に混乱しており、現地調査はしばらく行われなかった。
初めての現地調査は爆発から13年、ソ連成立後の1921年に、天文学者レオニード・クーリックを中心とするソ連科学アカデミー調査団によって行われた。クーリックは聞き取り調査を行い、落下する火球が目撃されたことを確認した。スースロフも1927年に聞き込み調査を行い、当時、森で火災が発生したことを報告している。その後、クーリックは4度の探検を行った。
1927年:クーリック第1回探検 - 助手ギューリッヒと共に、大規模な倒木地帯の中心を発見する。
1928年:クーリック第2回探検 - 助手スイチンと共に、スースロフの漏斗[2]の磁気を測定するが、鉄隕石が落ちた証拠は見つからなかった。
1929年:クーリック第3回探検 - 助手クリノフと共に、スースロフの漏斗を排水して調査するが、隕石の破片は見つからなかった。
1939年:クーリック第4回探検 - ユージノエ沼の調査
1940年:クーリック第5回探検 - ユージノエ沼の調査を行う予定だったが中止。
クーリックは落下した天体は隕石であると考えていたが、4回の探検ではクレーターや隕石の破片など隕石落下説を裏付ける証拠は見つからず、成果はあがらなかった。
1946年にはロシアのSF作家アレクサンドル・カザンツェフ(Aleksandr Petrovich Kazantsev)が「爆発は地球に墜落した異星人の宇宙船に積まれた核爆弾によるものである」という内容の小説「爆発」を発表した。これを受け、トムスク大学の研究員などを中心とした総合自主探検隊(KSE)が結成される。後にKSEは現地で数回の残留放射能の測定を行うが検出されず、カザンツェフの説は否定された。
その後1960年代に入ると、本格的な探検調査が行われるようになった。倒木の倒れている向きなどの綿密な地図が作られたことで、爆心地や爆発力、入射角、爆発時の速度などが判ってきている。爆発の衝撃波と、斜めに高速移動した衝撃波とが合成された衝撃波によって、爆発の跡は翅を広げた蝶のような形をしている。そのため爆発跡の形はツングースカ・バタフライと呼ばれている。
調査・研究を行った主な人物
安倍亮介
1994年現地で残留放射能測定などを行った。
G・P・ギューリッヒ
クリークの第1回探検のときの助手。
E・L・クリノフ
天文学者。クリークの第3回探検のときの助手。
V・A・スイチン
狩猟学者、動物学者、作家。クリークの第2回探検のときの助手。
注釈^ カール・セーガン「コスモス」
^ クーリックがI.M.スースロフの名前にちなんで名づけた凹地。クーリックはクレーターであると信じていたが実はサーモカルストであった。
関連項目
⇒http://www.aero.org/conferences/planetarydefense/2007papers/P4-1--Zlobin_Paper.pdf
⇒http://www.orc.ru/~azorcord/
⇒http://forest.akadem.ru/Articles/04/vaganov_en_1.pdf
シホテアリニ大爆発
ウィキメディア・コモンズには、 ⇒ツングースカ大爆発 に関連するマルチメディアがあります。 カテゴリ: ロシアの歴史 | 自然災害 | 隕石 | 1908年
更新日時:2008年8月16日(土)23:06
取得日時:2008/09/04 02:36