ヨーロッパ人がこの地を訪れるまで、チリの中央部や南部にはマプーチェ族やその系統のピクンチェ族などが居住しており、また、ポリネシア系の住人が太平洋を東に渡ってチリに上陸していた可能性も指摘されている。
15世紀に入ると、クスコを拠点に拡大したケチュア族のタワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキやワイナ・カパックらの征服により北部はインカ帝国に組み込まれたが、インカ帝国はマプーチェ族を完全征服することは出来ず、南部はマプーチェ族が支配し続けることになった。
スペイン人による征服とアラウコ戦争チリの征服者ペドロ・デ・バルディビアスペイン人に立ち向かったマプーチェ族の英雄ラウタロ
最初に現在のチリとなっている領域を訪れたヨーロッパ人は、ポルトガル人の探検家、フェルナン・デ・マガリャンイスだった。彼は1520年に、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡を「発見」した。 1532年にインカ帝国の皇帝アタワルパがスペイン人のコンキスタドール、フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。この遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。 バルディビアはかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる苦労もなしに成功し、1541年に中央部に辿りつき、首邑となるサンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、しかし南部の植民地化には苦戦した。マプーチェ族のトキ(首長)ラウタロは激しく抵抗し、バルディビア自身も1552年に戦死した。
その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、カウポリカンといったマプーチェ族の戦士達の激しい抵抗により、アラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間に渡ってビオビオ川を国境線にしてスペイン人とマプーチェ族の断続的な戦争状態が続くことになる。1541年に創設されたチリ総督領はペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンにアウディエンシアが設立された。
植民地時代のチリでは海賊の襲撃や、マプーチェ族との断続的な戦いが続くが、山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形に囲まれたチリ総督領の主要産業はペルー向けの小麦の生産などだったが、これはチリの入植者に農業を厭わない堅実な気質を育み、チリは徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになる。
1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が成立すると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土が現在の「刀の鞘」のように細長くなった。
スペインからの独立ベルナルド・オイギンスアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者 ホセ・デ・サン=マルティンディエゴ・ポルターレス 保守派支配の下で1833年憲法を制定し、当時のチリをラテンアメリカでもまれな安定した国にした
16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、そこから派生した半島戦争により、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世に据えるとインディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、チリでもクリオージョの間に独立運動の気運が高まった。1810年にはサンティアゴに自治政府が誕生し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。
1813年に自治政府はペルー副王アバスカルの派遣した軍によって崩壊し、再び王党派の支配を受けるが、独立指導者 ベルナルド・オイギンスはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍と共に1817年のチャカブコの戦いに勝利すると、サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となる。同年、連合軍がマイプーの戦いでスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。
1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進めるが、まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられた。しかし、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦いで保守派が勝利すると、以降保守派が指導権を握り続け、ディエゴ・ポルターレスが制定した1833年憲法により、保守支配の下で当時のパラグアイと共にチリは安定を続けた。この憲法は大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、この「ポルターレス体制」の安定の時代にチリは国力を蓄えることになる。
1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ。