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チャールズ・チャップリン
Charles Chaplin
チャールズ・チャップリン(1920年)
本名チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin)
別名義チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)
生年月日 (1889-04-16) 1889年4月16日
没年月日 (1977-12-25) 1977年12月25日(88歳没)
出生地 イギリス、ロンドン
死没地 スイス、コルシエ=シュル=ヴヴェイ
受賞
アカデミー賞
作曲賞
1972年『ライムライト』
名誉賞
1928年『サーカス』の製作・監督・脚本・演技で示した才能に対して
1971年 今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績に対して
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
1972年
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演男優賞
1940年『独裁者』
AFI賞
映画スターベスト100
1999年(男優部門第10位)
ロマンティック・コメディ映画ベスト10(第1位)
2008年『街の灯』
アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100(ヒーロー部門第38位)
2003年『街の灯』
英国アカデミー賞
フェローシップ賞
1975年
ブルーリボン賞
外国映画賞
1952年『殺人狂時代』
その他の賞
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チャールズ・スペンサー・チャップリン(英: Sir Charles Spencer Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者(英語版)」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。チャップリンの署名
チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー(英語版)劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社(英語版)、ファースト・ナショナル社(英語版)と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住した。しかし1972年の第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞、アメリカでの授賞式に招かれた。
生涯
初期の人生:1889年?1913年
出生と子供時代ハンウェルの学校における7歳のチャップリン(上から3列目の中央)。毎日毎日が窮乏の連続だったので、私自身としては、別に一家の危機といった感じはほとんどなかった。それに、まだ子供のことではあり、そんな不幸は簡単に忘れてしまっていた。チャールズ・チャップリン、幼少期の回想[1]
1889年4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父のチャールズ・チャップリン・シニア(以下チャールズ)と母のハンナ・チャップリンとの間に生まれた[2]。チャップリンは自伝で、ロンドン南部のウォルワース(現在のサザーク区)のイースト・ストリート(英語版)で生まれたとしているが[3]、公式の出生記録は存在していない[2]。