チベット
ウラ写メ交換掲示板
■18歳以上「入口」■

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


近代

1912年清国の滅亡後、チベットのダライ・ラマ政権は完全な独立を模索し、1913年にはモンゴルとの間で「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結、2国が手を携えて漢人の共和政権である「中華民国」に対抗する姿勢をとった。モンゴルに対してはロシア、チベットに対してはイギリスがそれぞれ武器の供与、借款の提供を行うなど、外部の支援も得たが、イギリスロシアをふくめ、当時の帝国主義列強諸国の中には、モンゴルとチベットを「独立国」として承認する国は現れなかった。

チベットは、辛亥革命の報が伝わった1913年、ラサを占拠していた清国軍を激しい市街戦のすえ駆逐したが、それ以後も、中国国民党などの中華民国の歴代政権とは軍事的な緊張状態にあり、チベット側は、ガンデンポタンの実効支配領域の内部には、いかなる中国の機関も設置を認めなかった。しかし1940年、ダライ・ラマ14世の即位式典に列席した中国国民党の使節団は、式典のちも帰国せず、1948年に強制退去させられるまで、「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサにとどまり続けた。

第二次世界大戦中は、連合国の主要国となり日本と対峙した中華民国の協力により、イギリス領インドから移ってきたイギリス軍によってギャンツェ、ラサやカム地方各地に通信基地が建設された。これらの基地は中華人民共和国の人民解放軍によるチベットの武力占領まで、イギリス軍の無線技師によって運営されていた。


現代

清国の滅亡以来、中華民国歴代政権は独立国として存在していたチベットを「中国の一部分」だとする主張を行っていたが、北京政権時代は「軍閥の混戦」、南京国民政府時代は対日戦争への対応におわれ、独立を主張するチベットに対し圧力をかけ続けていたものの、本格的な軍事侵略は行なわなかった。

しかし、1949年国共内戦に勝利して中華人民共和国を建国し、無宗教の社会主義国家を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」とする中国歴代政権の主張を踏襲し、いよいよチベット全土の「侵略」を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧した。その後、中国共産党政府はチベット国民に対する非常に残忍な弾圧や虐殺を繰り返し行なう事でチベットを抑圧支配し続けており、さらに漢人の移民を故意に実行し現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると言われている。(2002年の段階でのチベット自治区の人口比はチベット族91%、漢族6%[要出典]であった)


十七か条協定の締結

1950年中国人民解放軍が侵攻(チベット侵攻)、1951年には中華人民共和国とチベット政府「ガンデンポタン」は「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を締結し、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられた。

チベット政府は辛亥革命以来、チベット全域の領有と統合を主張していた(実際には、チベットの西南部3分の1程度を占める「西蔵」部分しか実効支配下におくことができなかった)が、十七か条協定は交渉当事者としてのガンデンポタンを「西蔵地方政府」と呼称している。すなわち、この協定は、チベット国そのものの独立性を否定するとともに、ガンデンポタンによる全チベットの統合をも拒否し、チベットの一部分「西蔵」の統治機関としての地位しかみとめないことを打ち出すものであった。

この協定では、ひきつづきガンデンポタンによる「西蔵」統治(ダライ・ラマが、宗教と政治の両方の指導者として戴く体制)の継続をみとめ、「西蔵」においては「改革を強要しない」ことを明示するものであったが、「西蔵」の領域の外部におかれたチベット東北部のアムド地方(青海省甘粛省西南部、四川省西北部)や、チベット東部のカム地方東部(四川省西部、雲南省西北部)などでは、1955年、「民主改革」や「社会主義改造」が開始された。


チベット動乱

清末以来、反清、反中闘争を続けてきたこの地方の人々は、翌1956年より武装蜂起を開始、一時的には中華人民共和国の軍事警察機関の一掃に成功する。チベット動乱の勃発である。カム人民の抗中蜂起に対し、中国人民解放軍はただちに反撃を開始、戦火を避ける民衆や敗走する抗中ゲリラたちは、雪崩をうって、まだガンデンポタンの統治下で平穏を保っていた「西蔵」へ逃げ込んだ。カム地方出身の抗中ゲリラたちは、この地で初めて統一組織「チュシガンドゥク」を結成、1957年からはアメリカCIAの支援も受けたが、故郷奪回に乗り出す力はなかったので、「西蔵」内の各地で人民解放軍の駐屯地や中華人民共和国の行政機関を襲撃する武力活動を展開した。ダライ・ラマ14世とアメリカのジョージ・ブッシュ大統領

このような情勢の悪化に対し、ガンデンポタンは、抗中ゲリラによる政府保有の武器や食料の提供要求を拒否するなど、十七か条協定の枠組みを維持することで、かろうじて確保された「自治」をまもろうとつとめたが、1959年には事態は一層悪化、人民解放軍のダライ・ラマ14世に対する観劇招待を、ダライ・ラマ拉致の口実と疑ったラサ市民が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結、人民解放軍による解散要求の後、ダライ・ラマ14世はラサを脱出した。ダライ・ラマ14世は、国境を越える直前、「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命した。なおこの動乱により数千を数えた寺院が人民解放軍の攻撃により数百に減ってしまい、仏像などにも深刻な被害が出たとされる。

チベット動乱以降、最高指導者ダライ・ラマ14世、政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドなどに亡命、十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するにいたる。

1959年〜1961年にかけヒマラヤ山脈の西方、および東方の二カ所において人民解放軍とインド軍の武力衝突が発生した。戦闘は、装備に勝る人民解放軍がインド軍を破って前進したのち、人民解放軍は、西部ではアクサイチン地区をそのまま確保、しかしソビエト連邦アメリカなどの国際社会からの圧力を受けて東部ではインド側が国境として主張するマクマホンラインまで撤退する形で収束した(中印国境紛争)。


★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki