チベット民族 (bod rigs) を自認する人々は、国際連合加盟国としてブータンを保有し、その他インド・ネパールの沿ヒマラヤ地方、現中国領の西南部を占める「チベット高原」など、三カ国において「少数民族」として分布しているが、面積・人口とも、大部分が中華人民共和国の占領下におかれている。この民族の唯一の独立国家ブータンは、歴史的にはチベットの辺境地方に位置し、政治・文化の中心ヤルンツァンポ河流域は、現在、中華人民共和国が設置した行政単位「西蔵」地方の中枢を占める。
チベット民族の伝統的な分布範囲は、四ヶ国に分断されているとはいえ、地理的にひとつのまとまった領域を成している。この民族自身が樹立したブータンを除くインド・ネパール・中華人民共和国において「少数民族」の扱いをうけているが、この伝統的分布範囲の内部においては、ほとんどの地域において、人口比の多数を占めている。
また、アムド地方の北部と、ラサの北方100キロほどに位置するダム地方には、17世紀にチベットへ移住してきたオイラト系のモンゴル人がまとまって居住している。このほかにも、タンラ山脈の南北には、中華人民共和国政府による民族識別工作では「蒙古族」にふくまれないが、元朝の皇族につらなる系譜を有していたり、十六世紀初頭のダヤン・ハーンの時代にこの地に移住してきた記録をもつモンゴル系の集団が多数分布している。
中央チベットには、都市部を中心に、カチェと呼ばれるムスリムが計6000人あまり居住している。彼らは19世紀のドグラ戦争において捕虜となったカシミール兵士の末裔である。チベット人との婚姻を何世代も重ねてきたため、カシミール語を失い、「最も美しいチベット語を話す人々」とも呼ばれるほど同化が進んでいる。中央チベットにはギャナ・カチェと呼ばれる別のイスラム教徒の集団もいる。彼らは中国から移住してきた「回民」「回族」という中国語を話すイスラム教徒である。
アムド地方の東端、中華人民共和国の行政区分で海東地区とされる地方は、伝統的に漢人や回民、その他の諸民族が多数居住してきた地方であった。近年、この地方における「漢族」の人口と人口比が突出して急増するとともに、チベット系、オイラト・モンゴル系の遊牧民が伝統的に牧畜を営んできた草原に対する開発が進み、民族ごとの人口比が激変しつつある。
中華人民共和国の少数民族支配政策である「民族区域自治政策」においては、特定の少数民族が多数「集住」する地域に、その民族のための自治行政単位を設けるとされているが、チベット民族に対しては、地理的にひとまとまりになっている「集住」地域が、西蔵、青海、四川省の2州1県、甘粛省の1州1県、雲南省の1州などに分けられている。上述の「チベット三州」、「プーと大プー」の領域は、この「集住区域」の総和にほぼ等しい。チベット民族の分布地域に対する中華人民共和国による行政区画の詳細については「チベット民族」および「民族区域自治」の項を参照。
インド内部での分布
カシミール州:ラダック地方
シッキム州
ヒマーチャル・プラデーシュ州北部
アルナーチャル・プラデーシュ州
チベットを建国した吐蕃王朝(7世紀〜842年)は、上述のチベット民族の分布領域を全て支配下におき、さらにはその東西南北の隣接地域に進出を果たしていた。チベット亡命政府は、難民を受け入れているインド・ネパール等の諸国への配慮もあってか、自身が主張するチベット国家の領域としては、吐蕃王朝時代の領域ではなく、グシ・ハン王朝時代(1642年〜1724年)の統合領域を主張している。
グシ・ハン王朝は、ダライ・ラマを信仰するモンゴルの一部族ホショト族がチベットに移住して樹立した政権で、チベットの民族的分布領域の大部分を征服した。チベット国内に本拠を置く政権による統合としては、吐蕃王朝以来の広大な範囲を誇る。この政権は、ヒマラヤ南沿地方に位置していたラダック、ブータン、シッキムなどに対する征服ははたさず、結果としては、グシ・ハン王朝に征服された地域は現在中華人民共和国の軍事支配下、その他の諸国は現在、独立国もしくはインド領、ネパール領となっている。
チベット亡命政府は、グシ・ハン(在位:1642年〜1654年)が征服地の全てを当時のダライ・ラマ5世に寄進したという立場をとり、グシ・ハンとその子孫によって統合された領域を、あるべきチベット国家の領域として主張している。
中華人民共和国政府は、現在、西蔵の部分のみをもって「チベット」だと主張する立場を採っているが、中華民国の中国国民党政府など中国を統治していた歴代政府による「チベット」の枠組み、中国共産党によるチベット(及びその他の諸民族)に対する民族自決権に対する態度は、時期によって大きく変化してきた。