チベット
★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


チベット亡命政府雪山獅子旗(チベット亡命政府の国旗)

チベットを建国した吐蕃王朝(7世紀〜842年)は、上述のチベット民族の分布領域を全て支配下におき、さらにはその東西南北の隣接地域に進出を果たしていた。チベット亡命政府は、難民を受け入れているインド・ネパール等の諸国への配慮もあってか、自身が主張するチベット国家の領域としては、吐蕃王朝時代の領域ではなく、グシ・ハン王朝時代(1642年1724年)の統合領域を主張している。

グシ・ハン王朝は、ダライ・ラマを信仰するモンゴルの一部族ホショト族がチベットに移住して樹立した政権で、チベットの民族的分布領域の大部分を征服した。チベット国内に本拠を置く政権による統合としては、吐蕃王朝以来の広大な範囲を誇る。この政権は、ヒマラヤ南沿地方に位置していたラダックブータンシッキムなどに対する征服ははたさず、結果としては、グシ・ハン王朝に征服された地域は現在中華人民共和国の軍事支配下、その他の諸国は現在、独立国もしくはインド領、ネパール領となっている。

チベット亡命政府は、グシ・ハン(在位:1642年1654年)が征服地の全てを当時のダライ・ラマ5世に寄進したという立場をとり、グシ・ハンとその子孫によって統合された領域を、あるべきチベット国家の領域として主張している。


中華人民共和国による「チベット」の枠組みの変遷

中華人民共和国政府は、現在、西蔵の部分のみをもって「チベット」だと主張する立場を採っているが、中華民国の中国国民党政府など中国を統治していた歴代政府による「チベット」の枠組み、中国共産党によるチベット(及びその他の諸民族)に対する民族自決権に対する態度は、時期によって大きく変化してきた。

民族自決権

中国共産党は、発足当初、ソ連コミンテルンの強い影響をうけ、「少数民族政策」としては、諸民族に対し、完全な民族自決権を承認していた。たとえば、中華ソビエト共和国の樹立を宣言した際には、その憲法(中華ソビエト共和国憲法)において、各「少数民族」に対し、それぞれ「民主自治邦」を設立し、「中華連邦」に自由に加盟し、または離脱する権利を有すると定めていた。

しかしながら、国共内戦に勝利し1949年に中華人民共和国を設立した直前には、政治協商会議の「少数民族」委員たちに対し、「帝国主義からの分裂策動に対して付け入る隙を与えないため」に、「民族自決」を掲げないよう要請、さらに現在では、各「少数民族」とその居住地が「歴史的に不可分の中国の一部分」と支配に都合の良い立場に転じ、民族自決権の主張を「分裂主義」と称して徹底的な弾圧の対象にするようになっている。

行政機構の変遷

中国共産党が、チベット社会とはじめて接触をもち、なにがしかの行政機構を樹立したのは、1934年-1936年にかけて行った長征の途上においてである。

この時期、中国共産党は、当時中国大陸を支配していた中華民国国民政府が同党に対する攻勢を強めたのに対し、各地の「革命根拠地」を放棄して合流、新天地を求めて移動し、最終的には陜西省の延安に拠点を据えたが、この途上、カム地方西康省)の東部に割拠し、しばらくの間この地を拠点として行政機構や軍事組織の再編に取り組んだ時期があった。ダライ・ラマ14世

この時、中国共産党は、占拠した町々のチベット人たちに「波巴政府」(「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写)を樹立させ、1935年、これらの代表を集めて「波巴依得巴全国大会」を開催させ(波巴依得巴 = bod pa'i sde pa は「チベット人の政権」の意)、これらのチベット人政権を統合して「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。この「人民共和国」は、実際にはカム地方東部の人々のみで組織されたものであったが、国号や「全国大会」の呼称からも明らかなように、チベット人全体の「民主自治邦」として設立されたものであった。

中華人民共和国の建国初期、それまで国民政府の支配下に置かれていたチベット人居住地域にはいくつかの「蔵族自治区」が設けられた。とくに1950年、カム地方のディチュ河以東の地に設立された「西康省蔵族自治区」は、一省の全域をチベット人の「自治区」と位置づけるものであった。

しかしながら、1950年代半ば、チベット人居住地域に「民主改革」「社会主義改造」を施す段階になって、従来の方針を変更、1955年、西康省は廃止されて州に格下げされ、カンゼ・プーリー・ランキョン・クル(甘孜蔵族自治州)として四川省に併合された。チベット動乱と1959年のダライ・ラマ14世のインドへの政治亡命を経た1965年、従来ガンデンポタンが統治していた領域(=西蔵)上にチベット人の「自治区」として西蔵自治区が発足したが、先行して隣接する各地に樹立されていた「チベット族」の自治州、自治県等は、この自治区に統合されることなく現在に至っている。

このようにして成立した中国共産党政府のチベットに対する現行の行政区分の大枠は、1724年 - 1725年に行われた雍正のチベット分割の枠組みにほぼ沿ったものである(詳しくは雍正のチベット分割西蔵の項を参照)。


歴史

チベットの歴史( ⇒en:History of Tibet)
古代:吐蕃王朝

中世
グゲ王国、青唐王国

サキャパ政権

パクモドゥパ政権

リンプンパ政権

ツァンパ政権


近世
グシ・ハン王朝

ガンデンポタン時代
ガンデンポタンの発足

ダライ・ラマ五世とグシ・ハン一族

デシー・サンギェギャムツォ

ジュンガル軍の侵攻と清朝の介入


ウラ写メ交換掲示板
■18歳以上「入口」■

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki