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中国の公認された少数民族としてのチベット族(蔵族)の居住領域に設けられた民族自治区とされるが、チベット自治区の領域は歴史的・文化的なチベット地域のうちの、中国領に内包される部分の一部で、歴史的に西蔵と呼ばれてきた地方を占めるのみ[2]であり、中国語による名称は「西蔵自治区」という。一方、日本語では戦前から長く西蔵とチベットはほとんど同義であるかのようにして用いられてきており[3]、「チベット自治区」と「西蔵自治区(チベットじちく、シーツァンじちく、などの読みが見られる)」というふたつの呼称が平行して使用されてきた[4]。
しかしながら、政治的単位としてのチベットが、歴史的・文化的なチベットの全体ではなく、中国によって設定された行政区域であるチベット自治区と同一視されることもしばしばある[5]。こうした視点は、そもそも前述の日本語における戦前からの「チベット」の意味合いから逸脱したものではないが、「中国主権下での自治」に関する中国政府とチベット亡命政府の交渉において、歴史的・文化的なチベット全体の一体性の回復を要求する亡命政府側の要求に対して、中国政府が政治的なチベットの範囲をチベット(西蔵)自治区の領域(西蔵)のみに限定しようとする立場を取ることと軌を一にするものとする指摘もある[要出典]。[6]であり、中国政府のチベット政策に反対する人々は、チベットとチベット(西蔵)自治区の同一視に対して異議を唱えている( ⇒http://www.tibethouse.jp/about/outline.html )
チベット自治区は、チベットの伝統的な地域区分にいう、ガリー・ウー・ツァン・コンポ・タクポ・三十九族・チャンタン・カム地方の西部などに相当し、中国政府はこれをラサ市、山南地区、シガツェ地区、ナクチュ地区、ガリ地区、ニンティ地区、チャムド地区に区画している。
中国に成立した政権、中国を征服し中国に本拠を置いた歴代の政権で、チベットの内部にまで直接の軍事的・行政的支配の手を延ばした政権としては、フビライ政権以降のモンゴル帝国と、雍正帝以降の清朝が存在する。「西藏」と称する中国の行政単位の直接の起源は、1723年、雍正帝によるグシ・ハン一族の征服とそのチベット支配体制の解体に遡る(詳しくは「チベット」の項を参照)。
雍正帝は、グシ・ハン一族がチベット各地に保有していた、各地の諸侯や直轄地に対する支配権を接収、グシ・ハン一族と麾下の青海モンゴルの各部族を青海(アムド)地方において30の「旗」に編成して理藩院の管轄下に置き、その属領を二分してタンラ山脈(唐古拉山脈)、ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南側をダライラマ領に加え、この線の北側には青海地方を設けたほか、残る部分を隣接する甘粛省・四川省・雲南省などの諸省に分配し、これらの土地のチベット人諸侯に各級の土司職の称号を与え、兵部を通じて支配下に置いた。
グシ・ハンによって1642年に寄進されたヤルンツァンポ河流域と、この分割により新たにダライラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西藏」地方である。
雍正帝によるチベットの行政区画は、基本的には20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年、ヤングハズバンド率いる英領インド軍の侵攻に驚いた清朝は、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを、中国に施行していた制度によって直接掌握することを決意、1905年、趙爾豊ひきいる四川軍を西方に向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗を粉砕し、チベットを東方から次第に軍事的に制圧しながら1909年ラサに到達、四川省の西部とダライラマ領の東部(すなわちカム地方)に「西康」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「省」の設置に取り組もうとした。
しかし1910年に中国の共和化を目指す辛亥革命が勃発すると、趙爾豊は本務地の四川に帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベットを占領していた清朝軍は動揺、インドに脱出していたダライ・ラマ13世は、1913年チベットに帰還し、チベットの独立を求めて清朝軍の残党に対する抵抗を指令、中国人の占領軍はディチュ河の線まで押し戻された。
チベット政府がチベット全域の領有を目指したのに対し、中国側では青海・甘粛で清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称し、チベット全体が中国領であると主張し続けた。 南京国民政府は、1931年、実際にはチベット政府の統治下にあるカム地方西部を含め、カム地方全域を管轄地域とする「西康省」を発足させた。
中国共産党は、国民党との内戦に勝利し、チベットに対しても、1949年までにアムド(青海)地方、カム地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「中国人民政府」を発足させた。そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。
中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際には実効支配を確立できなかったカム西部(昌都地区)については、中国政府に忠誠を誓うチベット人によって組織された「昌都解放委員会」の下、引き続き「西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人の比率が低く、国民政府が「西康」地方に帰属させていた南昌地区は、雲南地方に移管された。