チェコスロヴァキア共産党
■毎日更新無料動画!
■未公開流出画像満載

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


政権奪取

第二次大戦末期の1945年4月5日、赤軍と共に祖国に戻ったチェコスロバキア共産党はスロバキア東部のコシツェでコシツェ宣言を発表し、亡命政権の帰還と共産党の連立政権参加を提示した。同年5月にドイツが降伏し、チェコスロバキア全土が赤軍の占領下に入ると、帰国したベネシュを大統領とし、共産党も参加する国民戦線政権が発足した。1946年の総選挙では共産党が第一党となり、首相や内務大臣などのポストを獲得したが、得票率はチェコ(41%)・スロバキア(30%)でいずれも過半数には至らず(全国では36%)、アメリカ・イギリスとソ連との間で中立的政策を指向するベネシュ大統領やヤン・マサリク外務大臣(トマーシュの息子)と、ソ連軍の駐留を背景に影響力拡大を目指す共産党の議長でもあるクレメント・ゴットヴァルト首相との間で対立が深まった。

1948年2月、マーシャル・プラン受け入れ拒絶などで共産党の圧力が増大したのに抗議するために非共産主義政党の閣僚達がベネシュ大統領に辞表を提出すると、共産党はこれを逆手に取り、首都プラハなどでのデモ行動の結果、内閣を共産党とその同調者で独占する事に成功し、実権を握った。共産党側はこれを「二月の勝利」と呼んでいる。同年3月10日にはヤン・マサリク外相が外務省の中庭で転落死しているのが発見された。これは自殺とされたが、当時から共産党による他殺と疑われた。そして6月7日にベネシュ大統領が辞任し(同年9月3日に病死)、7月にゴットヴァルトが大統領に就任して、共産党が事実上一党独裁を行う人民民主主義体制によるチェコスロバキア人民共和国が成立した。


ゴットヴァルト独裁政権

ゴットヴァルトは1929年に共産党書記長に就任し、第二次大戦中はソ連の首都モスクワで共産党パルティザンへの指揮を行っていた経歴の通り、非常にソ連に対して忠実な人物であり、当時のソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンの政治手法をそのまま踏襲した。すなわち、戦前のチェコスロバキアが維持していた議会制度は完全に放棄され、他政党の支持者はブルジョワ主義者や対独協力者として大量に粛清された。

粛清は共産党内にも及び、特に戦後もチェコスロバキア共産党の下部組織として存続していたスロバキア共産党分離主義傾向を持つチトー主義者の根拠地として多くの犠牲者を出した。1951年には共産党のルドルフ・スラーンスキー書記長やヴラジミール・クレメンティス外相が逮捕され、1952年11月20日にはチトー主義・トロツキスト・アメリカのスパイなどの冤罪により11人が死刑判決を受けるスラーンスキー裁判が行われた(同年12月2日に執行)。

経済政策でもゴットヴァルトはスターリンと同様の政策を実施した。全ての生産設備は国有化され、中世以来の自由農民の伝統を破壊する農業集団化も強行されて、チェコスロバキアは「ミニ・スターリン」の手で最もスターリン主義的なソ連型社会主義国家へ変貌した。


ノヴォトニー体制の動揺

1953年、3月のスターリン死去に続き、5月14日にゴットヴァルトが急逝して、チェコスロバキア共産党は緩やかに変化した。集団指導体制の一角を占めたアントニーン・ノヴォトニー共産党第一書記は徐々に支持を固め、スラーンスキー裁判で訴追の中心人物となったアントニーン・ザーポトツキーが死去した1957年には大統領職も兼務した。ノヴォトニーはスターリン批判後に東ヨーロッパ諸国で広がるソ連支配への反発を抑え、ハンガリー動乱におけるソ連のハンガリー軍事介入を支持すると共に、1960年には国名をチェコスロバキア社会主義共和国へ改称した。一方、ゴットヴァルト政権による粛清犠牲者への名誉回復も慎重に進め、1963年にはスラーンスキー裁判の不当性を認める決定を下した。しかし、その自由化への対応は遅すぎた上、中央集権主義で硬直化した政治・経済システムや、1960年代に入って拡大した西側諸国との経済格差は共産党やノヴォトニー個人に対する国民の不満を増加させた。

1967年になるとノヴォトニーに対する批判が公然化してきた。その中心の一人はスロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクであり、チェコに比べて冷遇されてきたスロバキアの地域・党の地位向上を訴えていた。また、彼は言論の自由化などをチェコに先行して実施していた。


プラハの春

1968年1月5日、チェコスロバキア共産党の中央委員会はドゥプチェクを党第一書記に選出した。ドゥプチェクは検閲廃止などの自由化に着手し、ノヴォトニー体制の要人達への批判が更に強まった。3月21日、ノヴォトニーは大統領職も辞任し、後にプラハの春と呼ばれる改革路線の採用が明確になった。

4月に党中央委員会が採択した「行動綱領」には、党の民主的改革と過去の粛清犠牲者への名誉回復、経済学者のオタ・シク副首相が主張する市場経済の導入、言論の自由化、ソ連との同盟関係を維持した上での西側諸国との経済関係強化などが含まれていた。ドゥプチェクは共産党が主導権を持つ社会主義体制の維持と、外交・軍事面での東側陣営への残留を守りながら、人間の顔をした社会主義と呼ばれる政治・経済改革を進めようとした。しかし、活発な言論活動による共産党への批判の高まりや『二千語宣言』のような党外からの改革要求が続くチェコスロバキアの状況は、従来の社会主義一党独裁体制を堅持し、国内の民主化運動を潰していたソ連のレオニード・ブレジネフポーランドヴワディスワフ・ゴムウカなどにとって極めて危険なものに映った。ソ連や東ヨーロッパ諸国は社会主義共同体(=ソ連)の利益を優先する制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を主張し、ドゥプチェクに対して自由化への歯止めと共産党による強権支配の復活を要求したが、ドゥプチェクは応じなかったため、8月20日深夜に、ソ連軍を中心にポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリアの各国軍がワルシャワ条約機構 (WTO) 軍としてチェコスロバキアに侵攻し、全土を占領してドゥプチェク達の党・政府の指導部を拘束した。

この軍事占領に対しチェコスロバキア共産党は一致して非難声明を出し、ルドヴィーク・スヴォボダ大統領は外交交渉でドゥプチェク達の解放に成功した。ドゥプチェクは党の指導者に復帰したが、ソ連の厳しい監視と国民の民主化要求に挟まれて統治能力を失い、共産党内でも保守派の巻き返しに直面した。1969年4月にドゥプチェクは党第一書記から辞任せざるを得なくなり、ドゥプチェク派ながらも軍事介入以後はソ連へ接近したグスターフ・フサーク副首相が新たな第一書記になった。

ドゥプチェクはトルコ駐在大使に左遷された後の1970年に共産党から除名され、秘密警察の監視下に置かれた。


話題の着エロボイス!
今なら無料ダウンロード♪

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[この項目を更新]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki