1985年、ソ連でミハイル・ゴルバチョフ政権が登場すると、チェコスロバキアの共産党政権は次第にこれまでと逆方向の圧力、経済発展や社会の自由化を重視する「上からの改革」の実施要求に直面した。経済不振による国民の不満をそらすため、1987年にフサークは共産党書記長職をミクローシュ・ヤケシュに譲ったが、大統領にはとどまり、国家の最高権力者としてペレストロイカへの批判を隠さなかった。ヤケシュは限定的な経済改革を手がけたものの、言論の自由化や反体制派への監視を緩める事はできなかった。
1989年、一連の東欧革命の中でチェコスロバキアの共産党体制も一気に危機を迎えた。8月にハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが行われ、多くの東ドイツ国民が西ドイツへの亡命に成功すると、プラハの西ドイツ大使館にはバカンスでチェコスロバキア国内へ滞在していた東ドイツ国民が殺到した。チェコスロバキア政府は西ドイツ政府と交渉し、人道的配慮を理由に亡命希望者の西ドイツ移送を認めたが、これは東ドイツ政府の反発とともに、チェコスロバキア国内の反体制勢力から自国の民主化を求める声を呼び起こした。
11月9日にベルリンの壁崩壊が伝えられて、国民の民主化要求は一気に表面化した。11月17日から始まったプラハでのデモンストレーションは参加者を増加させ、ハヴェルを代表として反体制勢力が結集した市民フォーラムは民衆の支持を得た。民主化デモには共産党員も参加し、さらにドゥプチェクなどプラハの春当時の改革派指導者も加わった。
共産党政権はソ連の介入による支援も期待できず、軍隊による武力鎮圧も不可能となったため、民主化勢力との妥協を決断した。11月24日にヤケシュ書記長が辞任し、12月には民主化の実施を発表したラディスラフ・アダメッツ首相も辞任し、12月10日にはフサーク大統領も非共産党政権の発足を承認して辞職した。後任にはハヴェルが就任し、連邦議会の議長には共産党へ復党しなかったドゥプチェクが就任した。共産党はこのビロード革命によって、ほぼ無血のままに41年間維持した一党支配政権を失う事になった。
その後、共産党はアダメッツが書記長となり、1990年2月にフサークを除名して、マルクス・レーニン主義と共産党の名称を維持しながら新たなイメージを打ち出そうとした。また、連邦制によるチェコとスロバキアの対等性を重視するため、3月にボヘミア・モラビア共産党を設立し、スロバキア共産党との協調によってチェコスロバキア共産党が運営される事になった。
6月8日、チェコスロバキアで44年ぶりの自由選挙が行われた。共産党は連邦議会(下院)・民族議会(上院)ともに第2党を守り、影響力を維持したが(民族議会選挙での全国得票率は13.6%)、市民フォーラムが両院で過半数を占めたため、政権復帰はならなかった。また、選挙後にスロバキア共産党の主流派は党名を民主左翼党へ変更し、社会民主主義路線を採用して、チェコスロバキア共産党から離脱した。すぐに一部の残留派によってスロバキア共産党は再建されたが、その勢力は大きく削がれていた。
1992年総選挙では、チェコとスロバキアでそれぞれ民族主義政党が勝利し、地域間対立が激化した。そして、交渉の結果、遂に1993年1月1日に両国は連邦を解消し、それぞれ平和的に分離独立する事が決まった。共産党はこの「ビロード離婚」をとどめる事ができず、自らもボヘミア・モラビア共産党とスロバキア共産党に分裂する事になった。
分離後のチェコで、ボヘミア・モラビア共産党は野党として活動している。各種選挙では10%台前半の得票率に推移し、議会での議席を確保している。一方、スロバキア共産党は得票率が低下し、最近の国勢選挙では最低必要ラインを下回って議席配分を得られない事もある。また、両国の再統合を目指すチェコスロバキア共産党も再建されているが、ミニ政党であり、影響力はほとんど無い。 カテゴリ: チェコスロバキアの政治 | 共産党 | 東欧社会主義
更新日時:2008年8月23日(土)19:47
取得日時:2008/09/01 14:49