チェコスロヴァキア共産党
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ノヴォトニー体制の動揺

1953年、3月のスターリン死去に続き、5月14日にゴットヴァルトが急逝して、チェコスロバキア共産党は緩やかに変化した。集団指導体制の一角を占めたアントニーン・ノヴォトニー共産党第一書記は徐々に支持を固め、スラーンスキー裁判で訴追の中心人物となったアントニーン・ザーポトツキーが死去した1957年には大統領職も兼務した。ノヴォトニーはスターリン批判後に東ヨーロッパ諸国で広がるソ連支配への反発を抑え、ハンガリー動乱におけるソ連のハンガリー軍事介入を支持すると共に、1960年には国名をチェコスロバキア社会主義共和国へ改称した。一方、ゴットヴァルト政権による粛清犠牲者への名誉回復も慎重に進め、1963年にはスラーンスキー裁判の不当性を認める決定を下した。しかし、その自由化への対応は遅すぎた上、中央集権主義で硬直化した政治・経済システムや、1960年代に入って拡大した西側諸国との経済格差は共産党やノヴォトニー個人に対する国民の不満を増加させた。

1967年になるとノヴォトニーに対する批判が公然化してきた。その中心の一人はスロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクであり、チェコに比べて冷遇されてきたスロバキアの地域・党の地位向上を訴えていた。また、彼は言論の自由化などをチェコに先行して実施していた。


プラハの春

1968年1月5日、チェコスロバキア共産党の中央委員会はドゥプチェクを党第一書記に選出した。ドゥプチェクは検閲廃止などの自由化に着手し、ノヴォトニー体制の要人達への批判が更に強まった。3月21日、ノヴォトニーは大統領職も辞任し、後にプラハの春と呼ばれる改革路線の採用が明確になった。

4月に党中央委員会が採択した「行動綱領」には、党の民主的改革と過去の粛清犠牲者への名誉回復、経済学者のオタ・シク副首相が主張する市場経済の導入、言論の自由化、ソ連との同盟関係を維持した上での西側諸国との経済関係強化などが含まれていた。ドゥプチェクは共産党が主導権を持つ社会主義体制の維持と、外交・軍事面での東側陣営への残留を守りながら、人間の顔をした社会主義と呼ばれる政治・経済改革を進めようとした。しかし、活発な言論活動による共産党への批判の高まりや『二千語宣言』のような党外からの改革要求が続くチェコスロバキアの状況は、従来の社会主義一党独裁体制を堅持し、国内の民主化運動を潰していたソ連のレオニード・ブレジネフポーランドヴワディスワフ・ゴムウカなどにとって極めて危険なものに映った。ソ連や東ヨーロッパ諸国は社会主義共同体(=ソ連)の利益を優先する制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を主張し、ドゥプチェクに対して自由化への歯止めと共産党による強権支配の復活を要求したが、ドゥプチェクは応じなかったため、8月20日深夜に、ソ連軍を中心にポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリアの各国軍がワルシャワ条約機構 (WTO) 軍としてチェコスロバキアに侵攻し、全土を占領してドゥプチェク達の党・政府の指導部を拘束した。

この軍事占領に対しチェコスロバキア共産党は一致して非難声明を出し、ルドヴィーク・スヴォボダ大統領は外交交渉でドゥプチェク達の解放に成功した。ドゥプチェクは党の指導者に復帰したが、ソ連の厳しい監視と国民の民主化要求に挟まれて統治能力を失い、共産党内でも保守派の巻き返しに直面した。1969年4月にドゥプチェクは党第一書記から辞任せざるを得なくなり、ドゥプチェク派ながらも軍事介入以後はソ連へ接近したグスターフ・フサーク副首相が新たな第一書記になった。

ドゥプチェクはトルコ駐在大使に左遷された後の1970年に共産党から除名され、秘密警察の監視下に置かれた。その他の改革派も共産党内から一掃され、国外亡命か監視下での生活を迫られた。


フサークの正常化路線

フサーク政権は外交と国内統治の正常化を掲げ、チェコとスロバキアによる連邦化を除くと、チェコスロバキアをほとんど全てノヴォトニー以前の体制に戻し、ソ連に最も忠実な同盟国として振る舞おうとした。プラハの春は社会主義体制の転覆を狙ったブルジョワ勢力が外国の支援を受けて起こした反革命策謀であると規定され、社会主義革命を守るためにWTO軍の介入は正当かつ必要だったとして、イタリア共産党中国共産党からの非難に反論した。1969年に大規模な中ソ国境紛争まで悪化した中ソ対立でも全面的にソ連側を支持した。1971年には自らの役職名をソ連共産党に合わせて「書記長」へと改称し、1975年にはスヴォボダの死後に大統領へ就任した。

この正常化路線によって国内の混乱は収拾されたが、共産党に対する国民の不満は深く広まっていった。1977年には元共産党幹部会員でプラハの春での行動綱領作成を担当したズデネク・ムリナーシ劇作家としても有名な反体制活動家のヴァーツラフ・ハヴェルらにより『憲章77』が作成され、フサーク政権の人権抑圧(ヘルシンキ宣言違反)が非難されたが、政府は憲章署名者に対してムリナーシのように国外へ追放するか、あるいはハヴェルのように失職や投獄・監視など社会活動への参加を制約するかで応えた。チェコスロバキアには、ハンガリー動乱で成立し、奇しくも1968年に経済改革を開始したハンガリー社会主義労働者党カーダール・ヤーノシュ政権のような改革への寛容性は見いだせなかった。


ビロード革命と国家解体

1985年、ソ連でミハイル・ゴルバチョフ政権が登場すると、チェコスロバキアの共産党政権は次第にこれまでと逆方向の圧力、経済発展や社会の自由化を重視する「上からの改革」の実施要求に直面した。経済不振による国民の不満をそらすため、1987年にフサークは共産党書記長職をミクローシュ・ヤケシュに譲ったが、大統領にはとどまり、国家の最高権力者としてペレストロイカへの批判を隠さなかった。ヤケシュは限定的な経済改革を手がけたものの、言論の自由化や反体制派への監視を緩める事はできなかった。

1989年、一連の東欧革命の中でチェコスロバキアの共産党体制も一気に危機を迎えた。8月にハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが行われ、多くの東ドイツ国民が西ドイツへの亡命に成功すると、プラハの西ドイツ大使館にはバカンスでチェコスロバキア国内へ滞在していた東ドイツ国民が殺到した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki