カリフォルニア州パサデナ生まれ。子供の頃から研究熱心で、大ファンだったジム・トーミなど一流選手の打撃フォームを研究しながらバッティングセンターで打撃練習を毎日していた[1]。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA) に進学したアトリーは、大学通算で177試合出場・打率.342・174打点を記録。大学2年時にはUCLA歴代2位となるシーズン108安打を放った。
2000年にドラフト1巡目(全体15位)でフィリーズから指名を受け入団する。
2001年にA級で16本塁打(チームトップタイ)・120安打(同2位)を記録し、翌2002年にはA級から飛び級でAAA級に昇格。2003年4月4日にメジャーデビューを果たす。4月24日にはメジャーで初めてのスタメン出場を果たし、その試合の第2打席でメジャー初安打となる満塁本塁打を放った。この年はメジャー定着とはならなかったが、AAA級で好成績を残し、AAA級のオールスターにも出場した。2004年6月下旬にメジャーに再昇格。その後はシーズン最後までメジャーに定着し、94試合に出場、打率.266・13本塁打・57打点を記録した。この年、レフトのパット・バレルが怪我で不在の際に、より多くの出場機会をあたえるためにレフトでの起用案がでたが、実際に起用されることはなかった[要出典]。
2005年に二塁手のレギュラーに定着、シーズン半ばからは中軸を任されるようになり、打率.291・28本塁打・105打点の成績を収め、球団史上最多タイとなる二塁手で26本塁打を放っている[2]。シーズンオフには2006 ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表に選ばれている。
2006年には6月23日から8月3日にかけてメジャー史上10位タイとなる35試合連続安打を記録し、二塁手としてはルイス・カスティーヨと共に歴代1位タイとなった[3]。全試合安打を記録した7月にはプレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞し、オールスターにも初選出された。シーズン通算では3割・30本塁打・100打点のほか、200安打やリーグ最多得点を記録するなど軒並み成績を伸ばしシルバースラッガー賞を受賞した。また、シーズン終了後には日米野球のメンバーとして来日している。2007年1月には7年総額8,500万ドルで契約延長した[4]。
2007年は開幕から前年を上回る成績を残し、球団新記録となる25死球を記録しており、7月末に死球で右手首を骨折、1か月戦線を離脱した。またその代役として井口資仁がフィリーズへ移籍している。復帰後はすぐにレギュラーとして出場、チームのプレーオフ進出に貢献した。最終的に本塁打こそ減ったものの、二塁打を量産し、1996年にエドガー・マルティネスが81試合で40二塁打到達して以降では最速となる95試合目に到達した[5]。リーグ3位の打率.332、103打点と素晴らしい成績を残し、2年連続でシルバースラッガー賞を受賞した。
シュアなバッティングとパンチ力を兼ね備えた好打者。怪我さえなければ3割・30本・100打点前後を記録する能力を持つ。フィリーズでは主に2番や3番を任されることが多く、主砲であるライアン・ハワード、ジミー・ロリンズやパット・バレルと共に強力なクリーンナップを形成している。小柄な選手が多い二塁手の中では身長約185cmとやや大柄だが、俊敏であり、盗塁を試みることも多い(2005年、2006年にはそれぞれ16盗塁、15盗塁を記録している)。
もともとはサードであったが、当時は守備に難があるとされた。また、当時のメジャーのサードには好守のデレク・ベルがおり、セカンドが手薄だったことから、マイナー時代にセカンドにコンバートされた。主砲でファーストのライアン・ハワードが故障か休養日で不在の際には、ファーストを守ることがある。デビュー当初は不安視された二塁守備もプラス・マイナス・システムなどセイバーメトリクスによる新たな守備指標では高い数値を残しており、守備においてもメジャー屈指の存在となっている。[6]
ユニフォームを泥だらけにして一生懸命に打球を追う泥臭いプレーが魅力で、地元では絶大な人気を誇る。また、ルックスの良さから女性ファンも多い[7]。2006年オフには7年総額8500万ドルの大型契約を結び[4]、将来に渡るチームの顔として期待がかかっている。
獲得タイトル・記録
シルバースラッガー賞 2回:2006年、2007年
MLBオールスターゲーム選出 2回:2006年、2007年