ダマスカス
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ムスリムの征服からファーティマ朝までウマイヤド・モスク 現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である

636年、ダマスカスは第2代正統カリフウマル・イブン=ハッターブ(ウマル一世)に征服される。その直後、661年から750年まで続くアンダルス(現在のスペイン)からインドまで広がるウマイヤ朝の首都となったときに、この都市の力と威光は頂点に達する。705年にキリスト教会をモスクに改造したウマイヤド・モスクは今でもダマスカスに残っている。744年、最後のウマイヤ朝カリフ、マルワーン2世は首都をジャズィーラ(メソポタミア北部)にあるハッラーンに移し、以後ダマスカスはかつての再び政治的重要性を取り戻すことは無かった。

750年、ウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝が興ると、ダマスカスはバグダードから支配される。858年、アル=ムタワッキルは首都をサマラから移転する意図の下に短い間ダマスカスに居を構えたが、彼はすぐにこの考えを放棄した。アッバース朝が傾くに連れ、ダマスカスは不安定が広がり、地方政権の支配下に入る。875年、エジプトの支配者アフマド・イブン・トゥールーンがこの都市を手に入れ、アッバース朝の支配は905年になるまで回復しない。945年ハムダーン朝がダマスカスを手に入れ、その後しばらくしてイフシード朝の開祖ムハンマド・イブン=トゥグジュの手に渡る。968年そして971年にダマスカスは短い間カルマト派に占領される。


ファーティマ朝、セルジューク、十字軍

970年カイロにいたファーティマ朝のカリフがダマスカスの支配を取り戻す。これがこの都市の波乱の時代の幕開けだった。ファティマ軍の主力をなすベルベル人の軍隊は、市民の間で非常に不評を買った。シリアにおけるカルマト派、時にはトルコ人の軍隊の存在は、ベドウィンからの絶え間ない圧力を増やした。978年から短い間、ダマスカスはイザッディン・アル・カッサムの指導と市民軍の保護の下で自治を行っていた。しかし、グータ・オアシスはベドウィンの侵入を受け、トルコが率いる戦役の後、この都市は再びファティマ朝の支配に屈する。1029年から1041年までは、ファーティマ朝カリフ・ザーヒルの下、トルコ人の軍事指導者アヌシュタキンがダマスカスの総督となり、かつての栄光を取り戻すため大いに働いた。

この期間は、ダマスカスがブロックとインスラ(集合住宅)で特徴付けられるギリシア・ローマ風の都市計画から、より親しみやすいイスラム風の都市へとゆっくりと変わっていく時期であったようだ。格子状の直線の大路は、狭い街路のパターンへ変わり、ほとんどの住人が、夜には犯罪者や徴税から守るための重い木戸で閉鎖されるハラートの中に住むようになった。

11世紀後半のセルジューク朝の到来により、ダマスカスは再び独立国家の首都になる。1079年から1104年まではセルジューク朝およびシリア・セルジューク朝に支配されたが、それから別のトルコの王朝、ブーリー朝に支配される。彼らは1148年第2回十字軍の攻城戦にも耐え抜いた。1154年にはダマスカスは十字軍の宿敵、アレッポザンギー朝の有名なアターベクヌールッディーンに征服される。彼はダマスカスを首都としたが、彼の死後にアイユーブ朝エジプトの支配者サラーフッディーン(サラディン)に奪われ、その首都となる。サラーフッディーンは城砦を再建し、彼の統治下では郊外もあたかも都市そのもののごとく広大であったという。イブン・ジュバイルの記すところによると、サラーフッディーン時代にはダマスカスは多くの大学があり「乱されることの無い研究と隠遁」を求めて世界中から集まる勤勉な若者や知識を求める者を歓迎したという。アゼム宮殿

サラーフッディーンの死後、ダマスカスとカイロを治めるアイユーブ朝のカリフの間に頻繁に衝突が起きる。ダマスカス鋼は十字軍の間で伝説的な名声を得、今日なお模様の有る鋼はダマスカスと呼ばれる。ビザンチンや中国でつくられる紋様のある絹織物は、シルクロードの西の終点ダマスカスを経由して運ばれたため、英語ではダマスク織という言葉が生まれた。
マムルーク朝の支配

アイユーブ朝の支配(および自治)は、1260年モンゴル帝国がシリアに侵入したときに終わる。モンゴルの撤退後はマムルーク朝の地方首都となり、エジプトから支配される。


ティムール襲来

1400年にモンゴル人の征服者ティムールがダマスカスを攻撃した。マムルークのスルタンはカイロから、イブン=ハルドゥーンら代表団を送り交渉に当たらせるが、彼らが去った後街は略奪される。ウマイヤード・モスクは燃やされ、男女は奴隷にされた。膨大な数の職人がティムールの首都サマルカンドに連れ去られた。それでも、彼らは幸運な部類だった。数多くが虐殺され、その首は城壁の北東隅の外に積み上げられた。今日なお都市の一角にburj al-ruus(原義は「首の塔」)という名が付いている。

ダマスカスは再建され、1516年までマムルーク朝の地方首都として機能した。


オスマン帝国の統治

1516年マルジュ・ダービクの戦いオスマン帝国がマムルーク朝を破って以来、ダマスカスは1918年までオスマン帝国によって統治されることとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki