シーア派は、神は見ることができるとは信じていない。また、アッラーはどんな形は何であれ、体を持っているという考えも拒否している。
クルアーンのいくらかの一節では、アッラーの体についての記述が見受けられる。例えば、「アッラーと並べて他の神を拝んではならぬ。もともとほかに神は無い。全ての物は滅び去り、ただ(滅びぬは)その御尊顔(アッラー自身ということ)のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ戻されていく[10]」という一節である(第28章第88節)。シーア派の解釈は、「アッラーを除いて」という形になる。シーア派の論議では、この節は文字通り解釈してはならないのである。
また、シーア派の間で議論になる点は、神は、手を持っているというクルアーンの随所に記述がある点である。そのことは、神の力、あるいは慈悲を意味すると彼らは解釈している。例えば、「アッラーの手は鎖で縛られている(第5章第64節)[11]」という文章で始まる一節である。しかし、シーア派の人々はこの文章に続く「アッラーの手は拡がっている」という文章を引用することで、この節の寓話性を説く。
神は、以下のような積極的な属性を持つと信じられている。
カディーム(Qad?m) - アッラーは永遠である。始まり、そして終わりは無い。
カディール(Qadir) - アッラーは、全能である。アッラーの力は、全てのものに及ぼす。
アリーム('Alim) - アッラーは全知である。全てのことを知っている。
ハイ(Hai) - アッラーは生きている。それも永遠に。
ムリド(Mur?d) - アッラーは、全ての事象に対して慎重である。混乱することは無い。
ムドゥリク(Mudrik) - アッラーは全てを受け入れてくる。全てを見聞する。あらゆる場所に存在している。ただし、目や耳を通して、見聞しているわけではない。
ムタカリム(Mutakalim) - アッラーは世界の創造主である。アッラーは、言葉を作った。
サディーク(Sadiq) - アッラーは真実である。
また、消極的な属性を持つ。
シャリク(Shar?k) - アッラーは妻を持たない。
ムラカブ(Murakab) - アッラーは作られたものではなく、物質的なものでもない。
マカン(Mak?n) - アッラーは、どんな場所、体に制限されない。
フルル(Hul?l) - アッラーは体を持たない。
マハーレ・ハワディス(Mahale hawadith) - アッラーは変化しない。
マリ(Mar?) - アッラーは見ることができない。なぜならば、体を持たないからである。
イフティヤジュ(Ihtiyaj) - アッラーは、独立した存在である。アッラーは、飢えていない。というのもアッラーは、どんなものも持っていないからである。
シファテ・ザイード(Sifate zayed) - アッラーは、あらゆる制限を受けない。
シーア派の人々は、神が「神の永遠でない行動の一つ」としてクルアーンを創り人々に贈ったものと認識しているので、したがって、シーア派の信仰は、スンナ派とは対照をなし、クルアーンは、創造物であるということになる。シーア派の人々は、ムハンマドの「神は存在した(その時には時間の概念があった)、したがって、神のそばには何もない」というハディースを引用する。
たとえ、そうであったとしても、シーア派の人々は、クルアーンは完全なものであると信じているのである。
シーア派の人々は、スンナ派の信仰は、真実からの逸脱と見なしている。しかしながら、シーア派の人々は、スンナの人々を多神教とは論じていない点で誤解してはならない。
シーア派の人々の批判は、スンナ派の人々が、胴体、顔、手、指、足といった体の一部分を持っているという記述がなされたハディースを真正のハディースと見なしているからである。
スンナ派の人々が、クルアーンは神の言葉で人の手によって創られたものではないと信じている一方で、シーア派の視点では、クルアーンは言い換えればシルクの表れであると主張する。
シーア派の視点が、アリーを神格化することでタウヒードを否定しているのではないかという考えもある。確かに、シーア派の一分派であるアラウィー派のアリーが神の化身であるという信仰もある。
サラフィーは、シーア派及びスンナ派の人々が様々な方法でタウヒードを否定していると主張する。例えば、アラビア語でTawassulと呼ばれるアリーへの崇敬の念を唱える祈りを行うシーア派と伝統的なスンナ派の人々は、多神論者であるという主張である。
特に、シーア派の人々が、サラフィーをイスラームの多くの部分を放棄したと告発している。例えば、シーア派の人々は、Mawlidという言葉を盛大な祝祭で用いている。シーア派の人々は、サラフィーがムハンマドが過度に神格化されることを恐れるだけでなく、ムハンマドとの紐帯をもっていたいと人々が願っていることを奪っていると批判する。
サラフィーは、ムハンマドが自分の誕生日を祝ったことはなく、同様に、サハーバも、ムハンマドの誕生日を祝ったことはないと主張している。そして、預言者の誕生日を祝うことを禁止(ビドア)にすべきだと結論付けている。
ただ、タウヒードを論じる上で重要なのは、神の唯一性というイスラーム世界で論じられた「アッラー」の属性を論じることではなく、アッラーが唯一であることを前提とした上で、現実にどのように解釈をするかということである。タウヒードは、イスラーム世界の様々な法理論、神学、哲学、政治学、経済学などの基礎となる。
ここでは、タウヒードの持つ等位性・差異性・関係性の3つの性格を論じる。
ユダヤ教の場合の神の啓示の受け手はヘブライ人に限定される(選民思想)。黒田は、スピノザの聖書解釈による『神学・政治論』の足取りを用いることによって、イスラームとの差異を以下の文章で結論付けた。
「イスラームのタウヒード論が提示している万象の等位性の原則は、創造者と被造物との関係を〈一化〉し、両者の間の隔たりを等距離に置くことによって、差別の規制を外し、現実世界の解釈に水平的な展望を与えている。万物が同等な存在の価値をもつというこの世界観は、特権的な地位を享受する者たちによる専断が産出する、存在世界についての縦割りの構造化を阻むのである[12]」
ユダヤ教がヘブライ人に神の啓示の受け手を限定したのに対し、キリスト教は、民族という境界を越えて普遍化した宗教であるといってよい。しかしながら、ユダヤ教の選民思想を克服したキリスト教もまた、三位一体説において、イスラム教からみれば大きな問題を内包することとなる[13]。