タウヒードは、3つの側面を持っている。
神の唯一性(Tawheed-ar-Ruboobeeyah)とは、「神は、創造者であり、創始者であり、設計者であり、全てを養ってくださるものであり、安寧を与えてくださるものであるという唯一の神であることを信じる」ことである。
この信仰は、ヨーロッパにおけるカルヴァン派や1600年代にニューイングランドに移住したピューリタンの信仰と相通じるものがある。この信仰に基づくと、人々は、神に全面的に依存している存在だと考えることになる。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。「地上を匍い廻る動物にしても、全部アッラーの養い給うところ。何処に棲み、何処に潜むかということまでご存知。ことごとく明白な啓典(万物の運命を記載した天の書物)に記録されておる(第11章第6節)[5]」「アッラーこそは万物の創造主。あらゆるものを世話し給う。天と地の全ての鍵を持ち給う。アッラーのお徴をありがたいとも思わぬどもは、いまに必ず損をする(第39章第63節)[6]」
唯一神への帰依(Tawheed-al-Ulooheeyahあるいは、Tawheed-al-Ebaadah) とは、神以外のものは決して、崇拝の対象としてはならないということである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例(クルアーン第59章第22節から第24節[7])である。「これぞこれ唯一無二の御神、アッラー。目に見える世界も、目に見えぬ世界をもともに知悉し給う。お情け深い、慈悲深い御神」「これぞこれ唯一無二の御神、至高の王、聖なる御神、限りなき平安の神、誠実の守護者、万物の保護者。偉大で、その権力限りなく、尊厳この上もなきお方。ああ勿体無い、恐れ多い、人々がともに並べる(邪神ども)とは比較にならぬ高みにいます御神におわしますように」「これぞこれアッラー、蛮勇を創造し、創始し、形成するお方。あらゆる最高の美名を一身に、集め給う。天にあるもの、地にあるもの、全て声高らかに賛美し奉る。ああ限りなく偉大、限りなく賢い御神よ」
偶像崇拝の完全否定(Tawheed-al-Asma-Sifaat)とは、神の不可視性とイスラーム化以前のカアバで数多くの神が神像として祀られていたことからその信仰を否定する考えである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。「皆さん、自分で刻んだ偶像を拝んでなんとなさる(第37章第95節)[8]」「言ってやるがよい、「天と地をすべ治めるものは誰か。」言ってやるがよい、「アッラーだ」と。言ってやるがよい、「それなのに、お前たち、(アッラー)を差し置いて、他の(偶像)どもを神と仰ぐことにしたのか。自分自身に対してすら良くすることも悪くすることもできないようなものどもを(第13章第16節)[9]」
ムスリムの人々(サラフィー)にとって、以下のような行動は、シルクと見なされるのである。
スーフィー信仰……早期のムスリムやスーフィーと呼ばれる聖者の墓所へ巡礼を行ったりすること。
死から逃れるための礼拝
[注] サラフィー(????)? とは、19世紀に生まれたイスラームにおけるオーソドックス・ファンダメンタリズムの運動、またその主義のことを指す。詳細は、 ⇒en:Salafism を参照のこと。
クルアーンを逐語的に解釈するのであれば、イブン・タイミーヤが説くように、神は、体の各部分を持たず、しかし、クルアーンやハディースに記述がある「手」、「目」、「顔」といった属性を持っている。しかし、それぞれは、人間が知っているような形状をしてはいない。そして、サラフィーは、神は天上界に住んでいると信じているのである。
シーア派
教説
カイサーン派 ? ザイド派
イスマーイール派
カルマト派
ムスタアリー派
ニザール派
十二イマーム派
アラウィー派
ドゥルーズ派
イマーム
アリー ? ハサン ? フサイン
ザイヌルアービディーン
ムハンマド・バーキル
ザイド・イブン・アリー
ジャアファル・サーディク
ムーサー・カーズィム
イスマーイール
アリー・リダー
ムハンマド・ムンタザル
シーア派においても、タウヒードは絶対なものである。
シーア派は、神は見ることができるとは信じていない。また、アッラーはどんな形は何であれ、体を持っているという考えも拒否している。
クルアーンのいくらかの一節では、アッラーの体についての記述が見受けられる。例えば、「アッラーと並べて他の神を拝んではならぬ。もともとほかに神は無い。全ての物は滅び去り、ただ(滅びぬは)その御尊顔(アッラー自身ということ)のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ戻されていく[10]」という一節である(第28章第88節)。シーア派の解釈は、「アッラーを除いて」という形になる。シーア派の論議では、この節は文字通り解釈してはならないのである。
また、シーア派の間で議論になる点は、神は、手を持っているというクルアーンの随所に記述がある点である。そのことは、神の力、あるいは慈悲を意味すると彼らは解釈している。例えば、「アッラーの手は鎖で縛られている(第5章第64節)[11]」という文章で始まる一節である。しかし、シーア派の人々はこの文章に続く「アッラーの手は拡がっている」という文章を引用することで、この節の寓話性を説く。
神は、以下のような積極的な属性を持つと信じられている。
カディーム(Qad?m) - アッラーは永遠である。始まり、そして終わりは無い。
カディール(Qadir) - アッラーは、全能である。