タウヒード
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アリーの神格化への批判

シーア派の視点が、アリーを神格化することでタウヒードを否定しているのではないかという考えもある。確かに、シーア派の一分派であるアラウィー派のアリーが神の化身であるという信仰もある。


Tawassul

サラフィーは、シーア派及びスンナ派の人々が様々な方法でタウヒードを否定していると主張する。例えば、アラビア語でTawassulと呼ばれるアリーへの崇敬の念を唱える祈りを行うシーア派と伝統的なスンナ派の人々は、多神論者であるという主張である。


スンナ派(サラフィー)への批判

特に、シーア派の人々が、サラフィーをイスラームの多くの部分を放棄したと告発している。例えば、シーア派の人々は、Mawlidという言葉を盛大な祝祭で用いている。シーア派の人々は、サラフィーがムハンマドが過度に神格化されることを恐れるだけでなく、ムハンマドとの紐帯をもっていたいと人々が願っていることを奪っていると批判する。

サラフィーは、ムハンマドが自分の誕生日を祝ったことはなく、同様に、サハーバも、ムハンマドの誕生日を祝ったことはないと主張している。そして、預言者の誕生日を祝うことを禁止(ビドア)にすべきだと結論付けている。


現実解釈における3つの原則

ただ、タウヒードを論じる上で重要なのは、神の唯一性というイスラーム世界で論じられた「アッラー」の属性を論じることではなく、アッラーが唯一であることを前提とした上で、現実にどのように解釈をするかということである。タウヒードは、イスラーム世界の様々な法理論、神学、哲学、政治学、経済学などの基礎となる。

ここでは、タウヒードの持つ等位性・差異性・関係性の3つの性格を論じる。


等位性


ユダヤ教との比較

ユダヤ教の場合の神の啓示の受け手はヘブライ人に限定される(選民思想)。黒田は、スピノザの聖書解釈による『神学・政治論』の足取りを用いることによって、イスラームとの差異を以下の文章で結論付けた。

「イスラームのタウヒード論が提示している万象の等位性の原則は、創造者と被造物との関係を〈一化〉し、両者の間の隔たりを等距離に置くことによって、差別の規制を外し、現実世界の解釈に水平的な展望を与えている。万物が同等な存在の価値をもつというこの世界観は、特権的な地位を享受する者たちによる専断が産出する、存在世界についての縦割りの構造化を阻むのである[12]


キリスト教との比較

ユダヤ教がヘブライ人に神の啓示の受け手を限定したのに対し、キリスト教は、民族という境界を越えて普遍化した宗教であるといってよい。しかしながら、ユダヤ教の選民思想を克服したキリスト教もまた、三位一体説において、イスラム教からみれば大きな問題を内包することとなる[13]

キリスト教の正統教義においてイエス・キリストは「真の神であり真の人である」とされる。イスラム教からみると、これはナザレのイエスという人間を特権化し、例外的に神の子として位置づけていると批判される。このことは、イスラム教からみて、全ての被造物が平等であるという論理を結果的に破綻させる可能性をはらむ[14]

イスラームのタウヒード論がキリスト教に対する批判のまなざしは、ユダヤ教の選民思想とは異なり、「精神的ものと物質的なものとの乖離、ならびに前者を後者の上に位置させる世界観である。このような差別的世界観が何に由来するのであるかは、やや複雑な問題である。しかし存在界を縦割りに序列化し、物質的な要素、世俗の世界の事柄は放置して、もっぱら精神的な事柄に関心を集中させるキリスト教の基本的な傾向は、すでに常識となっている[15]」という、精神・物質の二元論的な考え方の批判になる。


存在論としての平等

イスラームのタウヒードが保障している内容は、それぞれが保有する属性にいかなる差別をも設けないこととなる。

イスラームにおいて、神が基本的な創造を終えた後、被造物の世界の管理、運営の責任を持つものとして、神に創造された人間が神からの委託を受けたと説く。したがって、万物が神の前に等しく平等であるという等位性を持って説明した場合、イスラームの文脈においての平等という概念が、「精神的な鍛錬、あるいは道徳的要請によって求められる結果といった、個人の側の自覚に基づく知的、精神的追求の成果として得られるのではなく、より深く、普遍的な存在論的基礎を持っていると言う点[16]」に集約されるわけである。


差異性

「神は創造にあたって、無駄な努力、重複を避けられた。したがって彼の創り出した被造物は、全てが差異的である[17]」という理論を出発点に、タウヒードをめぐる議論においては、クルアーンのいたるところで散見される個の重要性について語る必要がある。


カラーム神学の原子論

イスラーム思想史の概観をはじめに記述しておくならば、イスラームの特性を十分に考慮したカラームの神学と新プラトン派の色彩の強いギリシャ系哲学という2つの流れが存在する。詳細は、イスラーム哲学を参照のこと。

カラーム神学の特徴とは、議論百出であった神学者の意見の収斂の結果として、「万物の差異性」を挙げられる。この主張に従うならば、「万物は、分割不可能な部分、つまり最小の単位である原子から成り立っている。ところで、この原子は必ず二つの要素、つまり実体と偶性から構成されている。実体はそれ独自では現実に存在せず、それが具体的な存在となる際には一つ、ないしは複数の偶性を伴う。ところでその際特に注目すべき点は、一つの実体がそれぞれ必ず異なった偶性をとり、決して同じものをとることが無いという[18]」独自の原子論を展開した。

この議論は、一々の個体の固有性に目を瞑りながらも、それを構成する最小の部分である原子に、差異性が存在する根源を求めるというイスラーム世界における伝統的な「差異性」においての解釈論であった。


〈存在の優位性〉論

カラーム神学とは、別の角度で、差異性を論じたのが、17世紀のイランの哲学者であるモッラー・サドラーである。

彼の理論の大前提は、「眼前に存在するそれの固体が宿している秘密にうたれ、それと向き合うこと」にあった。著作『存在認識の道』において、事物が存在していることはいかなる定義なしで瞬時に了解されるがそれを規定することの困難さを記述している。

モッラー・サドラーは、この疑問を出発点に、同著において、存在に関しては完全な定義はありえようが無く、存在とまったく同等の概念が無いがゆえに、説明的に定義することができないと論証した。彼の世界認識、この本質か存在かの対比において、存在を先行させた〈存在の優位性〉論での意図は具体的に存在するそれぞれの最適な個体の一義性であった[19]


差異性の持つ政治的側面

イスラームの政治性を論じるにあたって基本的に重要なのは、ハリーファ(代理権)の概念である。ただ、西洋世界の王権神授説と厳格に峻別する必要がある。西洋世界の王権神授説が、国王が神の代理人として、政治に当たるという言説であるのに対して、イスラーム世界の代理権の概念は、タウヒードを出発点とするために、ある特定少数の人間に代理権が付与されているわけではないということである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki