詳細はソマリアの歴史を参照
1886年にイギリスが北部をイギリス領ソマリランドとして領有。
1908年までにイタリアが南部をイタリア領ソマリランドとして領有。第二次世界大戦中、一時はイタリアが全土を占領したが、その後イギリスの施政下に。
1948年に北部がイギリスの保護領。
1950年には南部がイタリアの信託統治領。
1960年6月26日、イギリス領がソマリランド共和国として独立、7月1日にはイタリア領も独立し、南北統合でソマリア共和国に。
1969年10月、クーデターでモハメド・シアド・バーレ少将が実権を握り、国名をソマリア民主共和国に変更。
1970年10月には社会主義国家を宣言、ソマリ社会主義革命党の一党独裁体制に。
1977年、エチオピアのソマリ族によるオガデン州分離独立運動に端を発してエチオピアとの間でオガデン戦争勃発。(1988年の両国の停戦合意まで続く。)
1980年1月、人民議会はバーレを大統領に選出。
1991年5月、ソマリ国民運動(SNM)が北部の旧ソマリランド共和国地域(=旧イギリス領ソマリランド)の分離・再独立を宣言し、新生ソマリランド共和国が発足。
1998年7月にソマリア北東部の氏族が自治宣言をし、ガローウェを首都とする自治政府、プントランド共和国を樹立。
1969年以降の歴史についてはソマリア内戦を参照
バーレ政権時代の最盛期には社会主義の名の下強力な軍事独裁が敷かれ、治安は比較的安定していた。しかしながら政権末期には首都モガディシュを除くほぼすべての地域を掌握できておらず、「モガディシュ市長」または「モガディシオ市長」と綽名されることもあった。1992年に、バーレ大統領は国外追放された。追放後、ソマリアには中央政府が存在しない状態が続いている。
政権崩壊後は地方豪族による分割支配が進行し、互いの勢力を攻撃しあうなど紛争状態が続いている。
2000年に誕生した正統暫定政府はジブチ共和国の首都ジブチ市に設置されていたが、周辺7カ国で構成する政府間開発機構(IGDA)の仲介で2004年に新たな暫定連邦政府がケニアのナイロビに発足し、2000年設立の暫定政府を継承した。国内統治を回復出来ず、その本拠地は南西部のバイドアに置かれている。
2006年6月、イスラム教の聖職者たちで運営する司法組織・イスラム法廷連合(のちイスラム法廷会議・UIC)が首都モガディシュを制圧、南部一帯を支配。イスラム原理主義的な統治を開始すると同時に、付属の警察部隊がバイドア暫定政府に対し攻勢をかけている。
国際連合安全保障理事会は、2006年7月13日、議長声明で無政府状態が続いているソマリアに国連平和維持軍の派遣を検討する意向を表明した。12月6日に派遣は決定されたが、その実働前に暫定政府軍がエチオピア軍の支援の下でイスラム法廷会議に攻勢をかけ、モガディシュを奪取した。その後もイスラム法廷会議は南部へと敗走を続けた。2007年1月1日、暫定政府軍はイスラム法廷会議の最後の拠点だったキスマヨを制圧し、暫定政府軍は、ソマリランドを除くソマリアのほぼ全土を制圧したことになった。
以前からソマリランドとプントランドが面するアデン湾は海賊行為の多発海域である。国際商業会議所(ICC)国際海事局(IMB)の調査によれば2001年にインド洋側でも海賊による襲撃が報告されるようになり[1]、2005年にいたって多発し、インドネシア周辺海域に次いで海賊行為が多い海域として急浮上した[2]。以来2007年まで上位5海域に位置づけられ、沿岸から最遠で390海里まで達するソマリア拠点の海賊によってアデン湾も含むソマリア周辺海域は船舶航行にとって非常に危険なものとなっている。
海賊事件の具体的なものとしては、2005年6月と10月にインド洋大津波被災に対する支援物資を運ぶ国連のチャーター船が乗っ取られたこと、同年11月にバハマ船籍の客船がロケットなどの火器による攻撃を受けていることが注目される[3]。2008年4月にフランス船籍の豪華帆船がアデン湾で乗っ取られている[4]。2008年8月には2日間で3隻が乗っ取られる事態も発生した[5]。 なお、日本が関係するものでは、日本の海運会社が運航するパナマ船籍のケミカルタンカーが2007年10月に乗っ取られている[6]。2008年4月に日本郵船の大型原油タンカー「高山」が韓国のウルサン港を出港し、積み地のサウジアラビア紅海側のヤンブー港に向け空荷での回送航行中、アデン湾でロケット弾によるものと思われる攻撃を受け、被弾した。人身の死傷はなかったものの、船は左後方部が損傷し、燃料が一部漏れる被害を受けている[7]。