主な成績
2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 予選リーグ敗退(通算1勝2敗)
2003年 東アジアサッカー選手権2003 準優勝
2004年 AFCアジアカップ2004 優勝
2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 予選リーグ敗退(通算1勝1敗1分)
2005年 東アジアサッカー選手権2005 準優勝
2005年2006 FIFAワールドカップ出場権獲得(通算11勝1敗 アジア予選B組1位通過)
2006年2006 FIFAワールドカップ本大会予選リーグ敗退(通算2敗1分)
通算成績 33勝12分け15敗
日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は特に攻撃面を積極的に選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。ジーコやベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くが、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うことしか出来ない独特の短所があると指摘しており、それが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた[2]。この選考基準に対して、走力を優先する後任のオシム監督は「水を運ぶ選手が福西しかいなかった」と批判したが、一方で総評として「ジーコの果たした仕事は大きくトルシエより上だ」と述べている。[3]
ただし、住友金属・鹿島時代はセンチメートル単位のズレすら許さないほどの厳密なサッカーを指導していた(この時代、惨敗したチームを「一番年寄りの自分が一番走っているじゃないか!何故もっと走らないんだ!」とロッカールームで怒鳴り散らす映像が残っている)。ジーコの通訳であった鈴木國弘によると「こちらの方が指導者としての本質であるのだろう」としている。しかしアマチュアからプロへの過渡期であった住友金属・鹿島時代と違い、代表監督時代には、「プロ」であり「代表である」選手を尊重し、彼ら自身の発想を生かしたサッカーを紡ぎだすことを望んでいたのだという。
日本代表退任後、トルコリーグ所属フェネルバフチェ監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では二位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。 また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。
守備戦術
DFはオフサイドトラップを多用せず、一人余るというやり方を徹底した。特にアジア予選等の結果重視の試合の際には、ハイラインによるプレスでボールを奪うより、ローラインによるバランス重視で守ることが多かった。
ボールポゼッションによりある程度ゲームの主導権を握ることを志向する
高いボールポゼッションを保ち、数多くのチャンスを作ること、そうすれば負ける確率は低くなる、という考えを持つ。ただし、「遅攻」に重きを置いているということではなく、むしろ「サッカーで一番美しいのはダイレクトプレー(ゴールに最短距離で進むプレー)」であり、「シンプルにゴールに向かえるのならばそれが一番理想的である」と語っている。しかし、サッカーではいつでもそれができるとは限らず、そのような場合でも速攻を意図すると「とにかく急いで焦るために、パスやシュートの正確性が失われる。それによって一つの大きなチャンスが台無しになってしまう」と語る。よって「(相手の守備陣を整えてしまい)相手の守備が堅い場合は、キープをする。ボールを速く回しながら」「まっすぐに行ければいいけれど、相手がブロックして行けない。詰まっている。その場合は一遍に突き進んでいてはダメですよね。理想的なのはバスケットの形。優れたチームになると24秒ルールをめいっぱい使う。その間は、確実に相手を動かしながら自分たちでスペースを作っていく。そして最後の一本のパスを正確に出す」ことが重要である、と語っている(「サッカーマガジン1000号」のジーコ×岡田対談より)。これはポゼッション・フットボール的思考の典型といえる(参考トータルフットボール)。
選手との相互信頼を重視する
このチームの1つのキーワードが「信頼」であった。2004年AFCアジアカップ(以下この節で「アジアカップ」と略)優勝後の「ジーコの正しさを証明したかった」という中村俊輔の言葉、あるいは「ジーコに恩返しをしたかった」という玉田圭司の言葉が、ジーコ政権下の日本代表のベースにある信頼関係をあらわしていた。また、代表というチーム特有の練習期間の少なさを考慮に入れ、戦術的な共通理解を深めるために(就任前のカンファレンスによるジーコ講演より)、ある程度コンディションの低下が見られても、戦術の軸となる選手は一貫して使い続けた。一方で欧州組で結果を残していた松井大輔をはじめアテネオリンピックに参加した年代の選手への評価は低く、結局彼らの中でドイツW杯のメンバーに入れたのは駒野友一と茂庭照幸のみである。ただし、招集した人数は意外と多く試合出場選手の総数は57人である ⇒[3](トルシエは総数で64人 ⇒[4])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にA代表デビューしている。