日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は特に攻撃面を積極的に選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。ジーコやベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くが、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うことしか出来ない独特の短所があると指摘しており、それが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた[2]。この選考基準に対して、走力を優先する後任のオシム監督は「水を運ぶ選手が福西しかいなかった」と批判したが、一方で総評として「ジーコの果たした仕事は大きくトルシエより上だ」と述べている。[3]
ただし、住友金属・鹿島時代はセンチメートル単位のズレすら許さないほどの厳密なサッカーを指導していた(この時代、惨敗したチームを「一番年寄りの自分が一番走っているじゃないか!何故もっと走らないんだ!」とロッカールームで怒鳴り散らす映像が残っている)。ジーコの通訳であった鈴木國弘によると「こちらの方が指導者としての本質であるのだろう」としている。しかしアマチュアからプロへの過渡期であった住友金属・鹿島時代と違い、代表監督時代には、「プロ」であり「代表である」選手を尊重し、彼ら自身の発想を生かしたサッカーを紡ぎだすことを望んでいたのだという。
日本代表退任後、トルコリーグ所属フェネルバフチェ監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では二位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。 また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。
守備戦術
DFはオフサイドトラップを多用せず、一人余るというやり方を徹底した。特にアジア予選等の結果重視の試合の際には、ハイラインによるプレスでボールを奪うより、ローラインによるバランス重視で守ることが多かった。
ボールポゼッションによりある程度ゲームの主導権を握ることを志向する
高いボールポゼッションを保ち、数多くのチャンスを作ること、そうすれば負ける確率は低くなる、という考えを持つ。ただし、「遅攻」に重きを置いているということではなく、むしろ「サッカーで一番美しいのはダイレクトプレー(ゴールに最短距離で進むプレー)」であり、「シンプルにゴールに向かえるのならばそれが一番理想的である」と語っている。しかし、サッカーではいつでもそれができるとは限らず、そのような場合でも速攻を意図すると「とにかく急いで焦るために、パスやシュートの正確性が失われる。それによって一つの大きなチャンスが台無しになってしまう」と語る。よって「(相手の守備陣を整えてしまい)相手の守備が堅い場合は、キープをする。ボールを速く回しながら」「まっすぐに行ければいいけれど、相手がブロックして行けない。詰まっている。その場合は一遍に突き進んでいてはダメですよね。理想的なのはバスケットの形。優れたチームになると24秒ルールをめいっぱい使う。その間は、確実に相手を動かしながら自分たちでスペースを作っていく。そして最後の一本のパスを正確に出す」ことが重要である、と語っている(「サッカーマガジン1000号」のジーコ×岡田対談より)。これはポゼッション・フットボール的思考の典型といえる(参考トータルフットボール)。
選手との相互信頼を重視する
このチームの1つのキーワードが「信頼」であった。2004年AFCアジアカップ(以下この節で「アジアカップ」と略)優勝後の「ジーコの正しさを証明したかった」という中村俊輔の言葉、あるいは「ジーコに恩返しをしたかった」という玉田圭司の言葉が、ジーコ政権下の日本代表のベースにある信頼関係をあらわしていた。また、代表というチーム特有の練習期間の少なさを考慮に入れ、戦術的な共通理解を深めるために(就任前のカンファレンスによるジーコ講演より)、ある程度コンディションの低下が見られても、戦術の軸となる選手は一貫して使い続けた。一方で欧州組で結果を残していた松井大輔をはじめアテネオリンピックに参加した年代の選手への評価は低く、結局彼らの中でドイツW杯のメンバーに入れたのは駒野友一と茂庭照幸のみである。ただし、招集した人数は意外と多く試合出場選手の総数は57人である ⇒[3](トルシエは総数で64人 ⇒[4])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にA代表デビューしている。
1990年に住友金属に入団する前からトヨタカップで来日(1981年フラメンゴ)、MVP受賞など日本とは縁があった。現在は日本が第二の故郷とコメントするほどの親日であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つジーコが母国で日本をリスペクトするようになり、近年ブラジルで日本の印象は変わったと言われている。
夕刊紙やスポーツ記事などに「日本に何年もいるのに日本語を喋ろうとしない」「日本語を全く習得していない」と書かれることがある[4]。 しかし実際は、本人はサッカー教室などで簡単な日本語の指示や受け答えをしている他、日本での自宅周辺の商店街、秋葉原の電化製品店、鹿嶋のショッピングモールなどで、日本語を使って買い物を行う姿が、通行人や市民にも目撃されている。
また、2006年開催のFIFAワールドカップの最終予選、対北朝鮮戦(無観客試合)において、日本語で「(相手DFの)ライン見て!ライン!」と指示したり、試合終了後、インタビュー直前に日本語でチームスタッフと談笑する模様が放送されている(その時、テレビ局スタッフから声をかけられ、「え?何?」と答えてもいる)。本人は、正式な場では通訳がいるのだから通訳を通して話した方が、誤解や曲解を生まなくて済む、と考えている。
日本サッカー協会・強化委員長の田嶋幸三氏によると「ジーコはほとんど日本語がわかるが、誤解を生むことを避けるため通訳を通している。政治の世界と同じ」、ブラジルのビジネス誌「イスト・エ」のインタビューでは本人曰く「聞くのは出来るが早口だと無理、読み書きも無理」とのことだ。
ちなみに、中田英寿やミチェル・プラティニとはイタリア語で会話をしていた。
日本代表監督の大役を引き受けた理由について、「もちろん金もある。しかしそれ以上に私は日本へ恩返しがしたかった」と、「恩返し」を強調するコメントをたびたび報道陣に伝えている。この恩に関して、日本サッカー発展のためと入団した鹿島アントラーズ時代に(当時格安の給金で世田谷区から電車とバスで通勤していた)、地域住民からの密な親睦があったなどの諸説逸話がある。
また監督就任中は、「日本サッカー協会に雇われてる身」と常に日本サッカー協会と志を共にするスタンスを取っており、監督として本来強化のために重要であるスケジューリングについても、ほぼ協会の意向に従っていた。但し、アジアカップ終了直後に強豪であるアルゼンチンとの親善試合を組むという方針をとった協会に異議を唱えたり(アルゼンチン戦後の会見より)、ワールドカップでは試合時間が広告代理店や在京キー局の意向で決められてしまう(ヨーロッパの昼間は日本の夜であるため高視聴率が得られやすい)ことを批判するなど、協会の強化方針に疑問を呈していた。
トヨタカップのMVP副賞の日本車を長期に渡り愛車にしている。ちなみに愛車は1981年型トヨタセリカで1986年に製造中止され年月が経つ上、さらに当時ブラジルは外貨流出を防ぐために外国車(完成車)の輸入を禁止していたこともあって、現在南米における稼働車としては超がつく希少車。副賞の自動車が外交問題になりはしないかと大会関係者は心配したが、ジーコは「フィゲイレド大統領に電話するから」と言ってあっさり輸入許可を得て、この車を持ち帰った。
現在は、日本代表のスポンサーに日産自動車が入っている関係で、同社が日本サッカー協会へ寄贈したシーマのステアリングを自ら握っていることもある。