ジーコ
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「King Arthur」

フェネルバフチェの監督として、就任1年目にしてトルコリーグを制覇し、また翌年には歴史上初めてUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントに同クラブを導くなど、選手としてだけでなく指導者としても大きな成功を収めた。そのためフェネルバフチェのサポーターからは、本名のアルトゥールとつづりの同じ伝説の王にちなんで「King Arthur」(アーサー王)の愛称でも呼ばれている。


ジーコレーベルとサンバ

ブラジルは、サンバボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。


来歴


フラメンゴ

リオデジャネイロ郊外の中流家庭に生まれる。母親の意向でジーコをミュージシャンにさせるべく幼少時からピアノを習わせるものの彼の兄弟アンツネスとエドゥの影響もあり多くのブラジル人と同様に、彼はサッカー選手を目指す様になる。そして1967年にブラジル・リオデジャネイロの名門フラメンゴのユースチームに入団した。

入団当初はテクニックは通用するが「やせっぽち」であることが致命的になり、ジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった。そして、計画は成功して競り合いに負けない強靱な体を手に入れた。(サイボーグと比喩されたことも。)。その後、ユースチームで116試合81得点の驚異的な記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。

フラメンゴには10年以上に渡って在籍し中心選手として君臨。1981年のコパ・リベルタドーレストヨタカップと4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で勝利に導く等、ジーコはクラブ史上で最も素晴らしい選手と考えられている。  ピッチではジュニオールやヌネスらのサポートもあり、考えられるあらゆる方法で得点を生み出し、正確なパスでフィールド全体を統率した。


ウディネーゼ

1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍すると、この無名のクラブを強豪へと押し上げた。当時のセリエAにはユベントスのミシェル・プラティニらがプレーをしていたが、初年度の1983-84シーズンには19得点をあげ得点ランキングの2位となった(プラティニより試合出場が6試合少ないにも関わらず)。 これらの活躍によってサポーターの人気を集めたが、クラブとの間で契約問題で揉め、1984-85シーズンを最後にイタリアを去る事となった。


ブラジル代表

1976年にブラジル代表に初選出され、FIFAワールドカップへは1978年1982年1986年の3大会に出場している。

初のワールドカップ出場となった1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消される不運(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)や監督との確執もあって不本意な大会となった。

1982年のワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンターナ監督の下でソクラテスファルカン(元日本代表監督)、トニーニョ・セレーゾ(元鹿島監督)と共に「クワトロ・オーメンズ・デ・オーロ(黄金の4人)」を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目されたが、2次リーグ最終戦でイタリアのカウンターアタックの前に敗れ去り、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)。志半ばで大会を去った。しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられ、現在もサッカーファンの間で語り継がれている。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金の4人」はこのチームが語源である。

1986年のワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングーAC戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。最後のワールドカップは準々決勝のフランス戦で交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げる事は出来なかった。


短い引退

1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。

1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部住友金属サッカー部(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。


鹿島アントラーズ

鹿島アントラーズでは選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任していた。その権限は監督以上のものであり、鹿島スタジアムの芝の長さも自ら決定するほどであった。結果、旧2部リーグの弱小チームを今現在も日本を代表するサッカークラブに成長させることになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki