ジョージ6世_(イギリス王)
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生涯


王子時代

ジョージ5世と王妃メアリーの次男として生まれる。兄にエドワード8世、妹にヘアウッド伯爵夫人メアリー、弟にグロスター公ヘンリーケント公ジョージらがいる。名前のうち、ファーストネームであるアルバートは、彼の曽祖父であるアルバートヴィクトリア女王の夫)に因んだものだった。

海軍軍人として、1909年からオズボーン海軍兵学校1911年からはダートマス海軍兵学校でそれぞれ教育を受け、1913年9月15日に海軍少尉候補生となる。第一次世界大戦に従軍し、1916年ユトランド沖海戦時には戦艦コリンウッドに乗艦していたものの、十二指腸潰瘍による体調不良から、主だった活躍をする事はなかったという。1918年空軍へ籍を移し、終戦時には、フランスナンシーに置かれていた独立空軍の本部のスタッフとして務めていた。

戦後の1919年の1年間は、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで歴史学経済学政治学を学んだ。翌1920年ヨーク公の爵位を賜って以降は、産業福祉会の会長を務め、工場等における労働条件を改善する為に精力的に活動し、“産業公爵”と呼ばれる様になった。1923年には、3度の求婚の末にストラスモア伯爵家からエリザベス・バウエス=ライオンを妃に迎え、4月26日にウェストミンスター寺院で挙式を執り行った。後に、エリザベス王女(のちのエリザベス2世)とマーガレット王女の2女をもうける。イギリス王室の結婚は当時から国内外を問わず話題となったが、大らかで優雅な雰囲気を持つエリザベスは特に国民から愛され、これに伴いヨーク公の人気も非常に高いものとなった。

1936年、兄エドワード8世がウォリス・シンプソン夫人と結婚するために同年12月に退位したため(王冠を賭けた恋と呼ばれた)、国王となる。この事態を最も恐れていたのがヨーク公自身であり、即位が正式に決まった際にはルイス・マウントバッテンに対して「これは酷いよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方なんだから。国事に関する書類なんかこれまで一度も見た事なんか無いんだよ。そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやった事の無い人間なんだよ」とぼやき、兄の退位の前日にもロンドンにいる母のもとを訪れ、涙ながらに愚痴をこぼしていたという。(左から)父・ジョージ5世、兄・エドワード王子(エドワード8世)、アルバート王子(ジョージ6世)、祖父・エドワード7世(1908年)


国王時代カナダ訪問時の国王(1939年5月19日)

ヨーク公はわずか3週間の簡単な準備期間を経て、1937年5月12日にウェストミンスター寺院で「ジョージ6世」として即位式を執り行い、王位に就いた後は国王としての義務と責任を誠実に実行した。即位した当時のヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラーベニート・ムッソリーニといった全体主義勢力が幅を利かせる様になっていた。イギリス国内では、対外的な政治的緊張を緩和するために、ネヴィル・チェンバレン首相が主張するナチス・ドイツに対する宥和政策が支持されるようになり、1938年9月29日ミュンヘン協定締結に伴い、第一次世界大戦の時の様な苦しみを国民に味わいさせたくないと考えていたジョージ6世もこれを支持した。

しかし、翌1939年にドイツがミュンヘン協定を反故にしてチェコを併合した事から、チェンバレン首相に対する逆風が強くなり、ジョージ6世も対独姿勢を変更せざるを得なくなった。この事から、同年にニューヨーク万国博覧会出席のため、5月にカナダ、6月にアメリカを訪問した際には、両国に対独共闘を呼びかけた。そして帰国後の9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻した事から、2日後の9月3日にフランスと共にドイツに対して宣戦布告を表明した。ロンドンを訪問したエレノア・ルーズベルト(中心)とともに(1942年10月23日

第二次世界大戦が始まると、1940年9月のロンドン空襲で命を落としかけるも、「国民が皆危険に晒されているのに、その君主である自分達が逃げ出す訳にはいかない」として、側近の進言を押し退けてロンドンから疎開せず、イギリス国民の先頭に立ってドイツ軍の空襲に耐えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki