ヨーク公はわずか3週間の簡単な準備期間を経て、1937年5月12日にウェストミンスター寺院で「ジョージ6世」として即位式を執り行い、王位に就いた後は国王としての義務と責任を誠実に実行した。即位した当時のヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニといった全体主義勢力が幅を利かせる様になっていた。イギリス国内では、対外的な政治的緊張を緩和するために、ネヴィル・チェンバレン首相が主張するナチス・ドイツに対する宥和政策が支持されるようになり、1938年9月29日のミュンヘン協定締結に伴い、第一次世界大戦の時の様な苦しみを国民に味わいさせたくないと考えていたジョージ6世もこれを支持した。
しかし、翌1939年にドイツがミュンヘン協定を反故にしてチェコを併合した事から、チェンバレン首相に対する逆風が強くなり、ジョージ6世も対独姿勢を変更せざるを得なくなった。この事から、同年にニューヨーク万国博覧会出席のため、5月にカナダ、6月にアメリカを訪問した際には、両国に対独共闘を呼びかけた。そして帰国後の9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻した事から、2日後の9月3日にフランスと共にドイツに対して宣戦布告を表明した。ロンドンを訪問したエレノア・ルーズベルト(中心)とともに(1942年10月23日)
第二次世界大戦が始まると、1940年9月のロンドン空襲で命を落としかけるも、「国民が皆危険に晒されているのに、その君主である自分達が逃げ出す訳にはいかない」として、側近の進言を押し退けてロンドンから疎開せず、イギリス国民の先頭に立ってドイツ軍の空襲に耐えた。王と王妃は「必要とあれば最後まで戦う」とまで宣言し、内外でドイツ軍によるイギリス本土への侵攻が懸念されているにも関わらず、拳銃を手にバッキンガム宮殿に留まり続け、ドイツ空軍によって破壊された国内を訪問して親しく国民を慰め、勇気づけた。また、元々吃音がある事から、普段から内向的で口数が少なく、公の式典などで挨拶したり、放送局のマイクを前に話をする事が非常に苦手であったにも関わらず、王妃と共に幾度となくラジオ番組に出演し、前線の兵士や地下抵抗勢力に激励のメッセージを送り続けた。戦時中、民間人の勇敢な行為に対してこれを称揚するためジョージ勲章が創設された。
ジョージ6世は生来両足にギプスを常用しなければならないほど病弱であったが、生真面目で誠実な性格であったとされ、奔放な兄とは正反対であったらしい。その性格が、王妃と共に第二次世界大戦中のイギリス国民を大いに勇気づけ、国民からは「善良王」とまで呼ばれるようになった。ジョージ6世の治世が王室と国民がより親密な関係になるきっかけとなり、国土は疲弊しながらも戦勝へと「精神的」に導いたと言っても過言ではない。
だが、戦後の疲弊した国内経済の建て直しや、インドの独立容認などの激務に追われ続け、国王としての責務と重圧から健康を崩してしまう様になった。1947年には体調不良をおして南アフリカ共和国やローデシアなど、人種差別問題が深刻な地域を訪問したが、翌年のオーストラリアとニュージーランドへの訪問を控えて動脈硬化症を発病し、訪問日程が取り消された。加えてヘビースモーカーであった事から肺癌まで発病し、この事からジョージ6世は完全に健康を回復する事が出来なくなってしまった。1951年9月に左肺を切除摘出してからは、一時的に小康状態を保ち、回復に向かうと見られていたが、1952年1月31日に長女のエリザベス王女と夫であるフィリップがオーストラリア、ニュージーランド、ケニアへ訪問するのをヒースロー空港へ見送りに出かけた後、療養を兼ねて狩猟やスポーツを楽しむ為に訪れていたノーフォークのサンドリンガム御用邸で、2月6日未明の就寝中に冠状動脈血栓症により死去した。56歳没。王妃エリザベスは、王が急逝した原因の1つに、身体が生まれつきあまり頑丈ではないのに王位を継ぐ事になり、心身とも疲労した事があるとして、ウィンザー公夫妻を終生許さなかったという。
称号ヨーク公の紋章
1895年12月14日 ? 1898年5月28日
ヨーク公爵息アルバート(His Highness Prince Albert of York)
1898年5月28日 ? 1901年1月22日
ヨーク公爵息アルバート殿下(His Royal Highness Prince Albert of York)
1901年1月22日 ? 1901年11月9日
コーンウォール並びにヨーク公爵息アルバート殿下(His Royal Highness Prince Albert of Cornwall and York)
1901年11月9日 ? 1910年5月6日
ウェールズ大公息アルバート殿下(His Royal Highness Prince Albert of Wales)