ケネディは民主党予備選挙に7度出馬し全て勝ち抜いたが、民主党幹部はカトリック教徒である彼が大統領候補になれば民主党は勝てないと判断した。彼らの声を代表して元大統領のハリー・S・トルーマンはミズーリ州インディペンデンス市で記者会見を行い、テレビを通じてケネディに出馬を思いとどまるよう訴えた。ケネディはこれを逆手にとってニューヨークで記者会見を開き、全ての予備選に出馬したのは自分だけであること、14年間の自分の政治経歴が大統領職に十分でないのであれば、トルーマン自身を含めて歴代の大統領の大部分が経験不足ということになること、44歳以下の人間が国家に対して責任ある地位に就けないのであれば、建国の父たちは存在し得なかったことを挙げて反論し、国民の支持を増した。
1960年7月13日、民主党大会においてケネディは大統領候補に指名され、副大統領候補にはテキサスの上院議員リンドン・B・ジョンソンを指名した。ケネディはその指名受諾演説でその後有名になる「ニュー・フロンティア精神」を掲げた。この演説の中でケネディはアメリカ国民に対し、「現状維持に固執するのではなく新しい未来への先駆者となるよう」呼びかけた。
この選挙では初めてテレビ・ディベートが取り入れられ、選挙に大きな影響を与えた。ケネディはマクレラン委員会の活動により名を高めていたとはいえ、現職副大統領のニクソンの知名度にははるかに及ばなかった。この事実を反映するように、テレビ・ディベートの直前に行われた支持率調査ではニクソンの支持率が勝っていた。しかし、ケネディはテレビ演説で好印象を残したことが幸いしてニクソンに勝利できたとされる。
ケネディの好印象の理由の一つは、ケネディが着ていたスーツの色と言われる。演説の時、ケネディは濃い色のものを、それに対してニクソンは薄い色のものを着ていた。当時のアメリカの一般家庭にあったテレビはモノクロであったから、ケネディは濃いグレーで表示され力強く見え、反対にニクソンは薄いグレーで表示され、たよりなく見えたと言う。事実、ラジオでケネディ対ニクソンのテレビ・ディベートを聞いていたケネディ陣営は負けたと思った、と後に証言している。更にケネディはテレビ用のメーキャップをした上に、持病の治療のために服用した薬品の副作用で日焼けしたスポーツマンに見えた。それに比べニクソンは直前に怪我を負っていたために顔色が悪かったにもかかわらず、「議論の内容が重要である」と言いテレビ用のメーキャップを拒否した上に、選挙戦の疲れからやつれて見えた。
このテレビ・ディベート以来、大統領選では両党の候補者がテレビ・ディベートを行うことが定着化している。また、候補者が着るスーツの色も、ほとんどがケネディが着ていたのと同じ、濃い紺色に近いものとなっている。
キング釈放への関与ドワイト・デビット・アイゼンハワー前大統領とケネディ(1960年)
大統領選キャンペーンが最後の追い込みに入った10月半ば、公民権運動家のマーティン・ルーサー・キングJr.牧師が、座り込みデモのために南部のジョージア州アトランタで逮捕された。この事件に対しコメントを求められると、ニクソンはノー・コメントの姿勢を貫き通したが、ケネディは即座にキング夫人に事態を憂慮しているとの電話をかけ、キング釈放のために動き出した。翌日、実弟のロバート・ケネディがキングに有罪判決を言い渡した判事に電話を入れ、キング釈放を求め、この翌日キングは釈放された。この一件で多くの黒人有権者がニクソンからケネディに流れたといわれている。黒人の多くはプロテスタントの一派であるバプティスト派の信者であるため、初めはクエーカー教徒で同じプロテスタントであるニクソン支持に回っていた。
キングの父親はニクソン支持からケネディ支持に鞍替えした理由を尋ねられた時、「私の妻が息子の逮捕に涙を流している時、彼(ケネディ)は、その涙を拭ってくれた。このような時にこうした行動をとる事は勇気のいる事だからだ」と答えたという。また、前大統領のドワイト・デビット・アイゼンハワーは、「たった2回の電話(ジョン・ケネディからキング夫人への電話とロバート・ケネディから判事への電話)が民主党を勝たせる結果になってしまった」と語った。
この選挙の際にケネディ陣営が、父親とビジネス上の関係が深かったマフィアを使って選挙不正を行ったという報道が多くなされている[要出典]。 実際、ニクソン陣営は、選挙管理委員会に対し正式に告発を行おうとしたが、前大統領のアイゼンハワーに「裁判となり泥仕合になると国家の名誉を汚す結果になる」と説得され告発を取りやめている。
ケネディは1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。ケネディは就任演説において、アメリカ人がみな「アクティブ・シチズン」である必要を語った。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」。さらに「人類の共通の敵」暴政・貧困・疾病および戦争と戦うためにともに参加してくれるように世界の国家に依頼した。この演説は、「近年で最も偉大な大統領就任演説」として、多くのアメリカ国民の記憶に留められた[要出典] 。
亡命キューバ人を訓練してカストロ政権を転覆させることを目的としたピッグズ湾事件が就任後すぐに起こった。ピッグズ湾侵攻計画はキューバ革命後、ケネディの前任者アイゼンハワー政権末期にCIAにより準備された。大統領のドワイト・デビット・アイゼンハワーはこの作戦にはほとんど関わらず、副大統領のリチャード・ミルハウス・ニクソンが主導していた。ケネディが大統領に当選すると、作戦を主導してきたCIA長官のアレン・ダレスや、リチャード・ビッセル作戦局担当次官らはケネディにこの侵攻計画を説明した。なお、選挙期間中、ケネディもニクソンもキューバに関する公約として、「必要とあらばキューバ侵攻を認める」という姿勢を通していた。ロバート・マクナマラとケネディ