暗殺暗殺直前のケネディ(後席右側)赤線がパレードの経路。黄色字のザプルーダーの位置のほぼ正面の赤線上で射撃された。弾丸が命中した瞬間(ザプルーダー・フィルムから)詳しくはケネディ大統領暗殺事件の項も参照。
ケネディは1963年11月22日に、遊説先のテキサス州ダラスの市内をリンカーンのオープンカーでのパレード中に狙撃され、暗殺される。まさにその日行われた初の日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも即座に報じられた。暗殺の理由と暗殺者は以下のように多くの説があり、いまだに結論が得られていない。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるためである。
衣料販売店を経営するエイブラハム・ザプルーダーによって撮られた暗殺の瞬間の8ミリ映像(「ザプルーダー・フィルム」と呼ばれている)は、ビデオ化された映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)、インターネットなどで容易に見ることができる。大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、「後方に」動いていることから、その致命的な射撃は「前方から」行われたとみられる。(射撃の向きについてはケネディ大統領暗殺事件のノートも参照)直後に大統領夫人が動揺した様子で頭が吹き飛んだ「後方に」目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。大統領夫人自身はその行動を認め、「後方に」吹き飛んだ大統領の頭の断片を拾うために「後方」部分に這い出たことを裁判で後に証言している。これは後の検証により単に危機回避をはかり車外に飛び出ようとしていただけではないかという説があるが、射撃しやすいオープンカーの後方部分に危機回避のために這い出したとするのは不自然である。
また、複数の一般人が、大統領が撃たれた場所の前方の丘の上に複数の銃を持った私服の人物がいたことや、前方から銃声が聞こえたことを証言している上、警備中のダラス市警の警官が、撃たれた場所の前方で銃声と火薬の匂いがしたことを証言している。
これらの独立した直接的事実は、射撃はすべて「後方から」リー・ハーヴェイ・オズワルドによって行われたとする暗殺真相究明委員会(ウォーレン委員会)による政府側報告書とまったく矛盾しており、政府側もしくは軍産複合体の巨大な陰謀が指摘される理由となっている。ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が政府側もしくは軍産複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある(なお、映画『JFK』はフィクションと歴史事実を意図的に混合しているので注意が必要である)。
いろいろな証拠を考え合わせると、まず後方(教科書倉庫付近。2箇所か)、そしてすぐに前方(駐車場付近。頭部に命中)から射撃が行われた可能性が高いと言われることが多い。
暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見がある。ルビーは1964年3月に殺人罪で有罪判決が下されるが、事件について多くを語らないまま4年後に肺塞栓症によりダラスのパークランド病院で死亡した。 ケネディ暗殺の犯人とされるオズワルドは逮捕後二日目にダラス警察で射殺。オズワルドが犯人ではないと証言した運転手のホエイターは奇怪な交通事故死。目撃者のレイノルズは重傷を受けて瀕死の重態。同じくペナピデスは、瓜二つの弟のエディをダラスの酒場で射殺されている。同じく「オズワルドはケネディ殺しではない」と言ったジェームズはコンクリートの車道に落ちて重傷。事件直後に取材に当たったプレス・テレグラム紙の事件記者のハンターが警官の誤射によって即死。ダラス・タイムスのジム・ケースも自宅で虐殺。殺された事件記者と行動を共にしていた弁護士のハワードもダラスで謎の頓死。スクープ記者のドロシーは自宅で急死。 「ケネディを狙撃したのは、オズワルドのいた教科書倉庫より、反対の陸橋側だった」と証言したパワーズ鉄道員は、レールの上で首と手足をバラバラにされて発見。ダラス警察は事故死と発表している。
ケネディ本人を始めとして、
実弟のロバート・ケネディは1968年の大統領選挙の予備選中に暗殺。
末弟のエドワード・ケネディはチャパクィディック事件で政治家としての求心力を失う。
実の妹のローズマリー・ケネディはロボトミー手術を無理やり受けさせられ、知能が後退して性格が粗暴になる(2005年死去)。
息子のジョン・F・ケネディJr.は自家用機を操縦して別荘へ向かう途中、大西洋上で墜落し不慮の死を遂げている。
等、多くの家族が不慮の死を遂げたり、不幸に見舞われていることから「悲劇のケネディ家」と言われている。
父親のジョセフ・P・ケネディは禁酒法時代に密造酒の製造と販売を通じてサム・ジアンカーナなどのマフィアとの関係が深く、ケネディ本人の大統領選挙の際にも強い協力関係にあった。
ケネディには大統領就任以前から、そして大統領就任後もハリウッド女優のマリリン・モンローなどとの不倫の噂がある。
少年時代から病弱であったケネディは様々な病気に悩まされて第二次世界大戦後には副腎機能不全(アジソン病)との診断が下された。彼が、常に日焼けしたような皮膚の色であったのは、その症状の一つであった。更にその後の手術の失敗で一時危篤に陥った事もある。その後、副腎機能不全は改善されたものの、大統領在任中もこの病気の他に、消化器系統の病気や左右の足の長さが2cmも違う事から来る体調不良など、様々な健康不安を抱えていた。
また、第二次世界大戦中の戦傷(背中)の後遺症に悩まされていた。ケネディがホワイトハウスで使用した椅子は、背中の痛みを緩和するために、大統領かかりつけの医師の協力によりデザインされた特注品である。