ジョン・F・ケネディ
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大統領職大統領就任式

ケネディは1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。ケネディは就任演説において、アメリカ人がみな「アクティブ・シチズン」である必要を語った。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」。さらに「人類の共通の敵」暴政・貧困・疾病および戦争と戦うためにともに参加してくれるように世界の国家に依頼した。この演説は、「近年で最も偉大な大統領就任演説」として、多くのアメリカ国民の記憶に留められた[要出典] 。


外交政策


ピッグズ湾事件

亡命キューバ人を訓練してカストロ政権を転覆させることを目的としたピッグズ湾事件が就任後すぐに起こった。ピッグズ湾侵攻計画はキューバ革命後、ケネディの前任者アイゼンハワー政権末期にCIAにより準備された。大統領のドワイト・デビット・アイゼンハワーはこの作戦にはほとんど関わらず、副大統領のリチャード・ミルハウス・ニクソンが主導していた。ケネディが大統領に当選すると、作戦を主導してきたCIA長官のアレン・ダレスや、リチャード・ビッセル作戦局担当次官らはケネディにこの侵攻計画を説明した。なお、選挙期間中、ケネディもニクソンもキューバに関する公約として、「必要とあらばキューバ侵攻を認める」という姿勢を通していた。ロバート・マクナマラとケネディ

1961年4月4日、この計画に関する最後の会議が国務省で開かれた。出席者はケネディ、ラスク国務長官、マクナマラ 国防長官、C・ダグラス・ディロン財務長官、その他国防次官クラスの閣僚のほか、J・ウィリアム・フルブライト外交委員長、大統領顧問のアーサー・シュレジンジャーほか2人、ダレスCIA長官、ビッセルCIA作戦局担当次官、レムニッツァー統合参謀本部議長であった。なお、上記のように選挙中からキューバ侵攻の可能性を口にしていたケネディはこの会議で作戦の実行を命令したものの「いかなる場合もアメリカ軍の“正規軍”は投入してはならない」という条件付きとし、出席者は全員ケネディの条件を承諾した。

しかし、それまでCIAは上陸する亡命キューバ人部隊に対してはアメリカ正規軍の援助を約束していたにもかかわらず、作戦終盤に急遽ケネディが正規軍の戦闘機による護衛を行なうまで正規軍の投入を控えたことや、ケネディがつけた条件の「非正規軍」の爆撃機や補給船などを準備したものの、作戦の計画がキューバ側に漏れていた為にキューバ軍が亡命キューバ人部隊2000人弱に対して20万人のキューバ軍を動員して迎え撃ったこともあり作戦は完全な失敗に終わり、さらにこの事件へのアメリカ政府の介入が世界中に知られたため、この作戦を推し進めたケネディ政権は中南米諸国をはじめとする各国からの非難を浴びた。

さらにアメリカ軍正規軍の投入を土壇場で拒否したために、亡命キューバ人団体やCIA、軍部からも反感を買った。ケネディはこの事件を期にダレスCIA長官とカベル同副長官を更迭し、ジョン・マコーンをダレスの後任とした。ケネディはキューバへのゲリラ活動や空軍機による空中偵察活動をその後も暫くの間継続させたが、CIAが行なっていたカストロ暗殺計画を知っていたかは意見が分かれている。


ベルリン危機ウィーン会談中のフルシチョフとケネディ

ピッグズ湾事件から2ヶ月も経たないうちに、次なる試練であるベルリン危機が勃発した。1961年6月のウィーン会談で、ケネディはソ連のフルシチョフ書記長兼首相を相手に首脳会談に臨んだ。議題はベルリンに関してだった。この会談でフルシチョフは、「第二次世界大戦の終結後より西ドイツと西ベルリンを管理しているアメリカとイギリス、フランスの4国とソ連は、東ドイツと平和条約を結んで第二次世界大戦の戦後処理を終結すべき」と主張し、「もしそれがなされれば米英仏の軍隊は西ベルリンから撤退せねばならない」と説いた。

そんなフルシチョフに対してケネディは、「西側の権利は放棄しない」と反論。これに対しフルシチョフは、「西側が東ドイツと平和条約を結ぶつもりがないのなら、今年中にソ連は単独で結ぶ」と伝えケネディをゆさぶった。しかしケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告。この会談は明日にも戦争が起きそうな緊迫感を帯びていたという。

翌月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説を行い、改めて西ベルリンを守り抜く決意を表明した。ケネディの強硬姿勢に対して1961年8月13日にフルシチョフは、ベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。これに対してケネディは西ベルリン駐留軍を強化。結局ソ連と東ドイツの間に平和条約が結ばれることはなかったが、この後もベルリンを巡って米ソの緊張は続いた。後にケネディが西ベルリンを訪問したときケネディが演説中に言った「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も一人のベルリン市民である(Ich bin ein Berliner・イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー)。」という言葉は、アメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなったばかりか、多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることにもなった。


キューバ危機

キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中最も重要な出来事だった。優れた政治手腕と側近からのサポートそして運によって、ケネディは戦争を望んだ政権中の強硬派のコントロールと、ソ連の脅迫によって脅威が増すことを防ぐことの両方を試み、それに成功した。後に、多くの人がキューバ危機を「世界が核戦争に最も接近した時」であると考えている。U-2偵察機

ケネディはピッグス湾事件の失敗以降も、キューバがソ連と急速に親密な関係を築いていたことからアメリカ空軍機によるキューバ軍施設の偵察活動を継続させており、実際にキューバ危機は、アメリカ空軍ロッキードU-2偵察機が、ソビエト連邦キューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した1962年10月14日に始まった。

ケネディは国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置して対応に当たった。エクスコムの会議において、統合参謀本部のメンバーはキューバ奇襲攻撃を主張したが、マクナマラ国防長官やロバート・ケネディ司法長官は海上封鎖を主張した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki