ピッグズ湾事件から2ヶ月も経たないうちに、次なる試練であるベルリン危機が勃発した。1961年6月のウィーン会談で、ケネディはソ連のフルシチョフ書記長兼首相を相手に首脳会談に臨んだ。議題はベルリンに関してだった。この会談でフルシチョフは、「第二次世界大戦の終結後より西ドイツと西ベルリンを管理しているアメリカとイギリス、フランスの4国とソ連は、東ドイツと平和条約を結んで第二次世界大戦の戦後処理を終結すべき」と主張し、「もしそれがなされれば米英仏の軍隊は西ベルリンから撤退せねばならない」と説いた。
そんなフルシチョフに対してケネディは、「西側の権利は放棄しない」と反論。これに対しフルシチョフは、「西側が東ドイツと平和条約を結ぶつもりがないのなら、今年中にソ連は単独で結ぶ」と伝えケネディをゆさぶった。しかしケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告。この会談は明日にも戦争が起きそうな緊迫感を帯びていたという。
翌月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説を行い、改めて西ベルリンを守り抜く決意を表明した。ケネディの強硬姿勢に対して1961年8月13日にフルシチョフは、ベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。これに対してケネディは西ベルリン駐留軍を強化。結局ソ連と東ドイツの間に平和条約が結ばれることはなかったが、この後もベルリンを巡って米ソの緊張は続いた。後にケネディが西ベルリンを訪問したときケネディが演説中に言った「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も一人のベルリン市民である(Ich bin ein Berliner・イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー)。」という言葉は、アメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなったばかりか、多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることにもなった。
キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中最も重要な出来事だった。優れた政治手腕と側近からのサポートそして運によって、ケネディは戦争を望んだ政権中の強硬派のコントロールと、ソ連の脅迫によって脅威が増すことを防ぐことの両方を試み、それに成功した。後に、多くの人がキューバ危機を「世界が核戦争に最も接近した時」であると考えている。U-2偵察機
ケネディはピッグス湾事件の失敗以降も、キューバがソ連と急速に親密な関係を築いていたことからアメリカ空軍機によるキューバ軍施設の偵察活動を継続させており、実際にキューバ危機は、アメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソビエト連邦がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した1962年10月14日に始まった。
ケネディは国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置して対応に当たった。エクスコムの会議において、統合参謀本部のメンバーはキューバ奇襲攻撃を主張したが、マクナマラ国防長官やロバート・ケネディ司法長官は海上封鎖を主張した。ケネディは海上封鎖の実施を決断し、同盟国の支持を得るために元国務長官ディーン・アチソンをフランスのシャルル・ド・ゴールのもとに派遣するとともにイギリスのハロルド・マクミラン、西ドイツのコンラート・アデナウアーのもとに国務次官を送り、NATO主要国である彼らの支持を得た。また、OAS諸国にはアメリカ大使館を通して事態を知らせた。
元大統領のフーヴァー、トルーマン、アイゼンハワーをホワイトハウスに招きケネディ自身が状況説明を行い、さらに議会指導者に対しても自身で状況説明を行った。この議会指導者との会談ではフルブライト上院議員やラッセル上院議員は海上封鎖に反対し、キューバ爆撃を主張した。
国内の軍隊をアメリカ南東部に移動、空軍戦略航空軍団を最高の警戒レベルに引き上げ、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開させて海上封鎖の準備を整えた。
10月22日午後7時、これらの準備が整った上でケネディは演説を行い、キューバに攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表し、キューバ国民に対して攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調した。この演説は合衆国海外情報局(USIA)を通してスペイン語に訳され中南米諸国に放送された。この演説の翌日、OASは全会一致で米国による海上封鎖措置の支持を決議した。ケネディの演説から2日後の朝に海上封鎖が発効し、潜水艦に守られていたソ連船18隻のうち16隻が洋上で停船・またはUターンし、翌日にはこれら16隻全てがUターンした。
10月23日にはケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開し、10月25日にはアメリカのアドレイ・スティーヴンソン国連大使がこれらの写真を用いてソ連のヴァレリアン・ゾーリン国連大使と対決し、劇的な効果を収めた。
しかしこの後もキューバ国内ではすでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。10月27日にはルドルフ・アンサーソン少佐が操縦していたU-2偵察機がキューバのSAM(地対空ミサイル)により撃墜される事件が起こった。これに対してエクスコムのほぼ全員がSAM基地の破壊で一致したが、ケネディは彼らを引き戻し、キューバに対する攻撃は、ベルリンやアメリカのジュピター・ミサイルが配置されているトルコに対するソ連の攻撃を誘発しかねないことを訴え攻撃しないことを決定した。
この間10月26日と10月27日にフルシチョフから書簡が届いており、前者は柔軟、後者は強硬な内容であった。ロバート・ケネディ司法長官とテッド・ソレンセン大統領顧問は前者に対する回答を起草し、これが送信された後、ロバート・ケネディはアナトリー・ドブルイニン駐米ソ連大使を司法省に呼び会見した。フルシチョフはこの回答に対する返事の中で、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイル基地を解体することに同意した。キューバ危機の後、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。後の歴史学者の間では、当時の副書記官ミコヤンからの強い進言がフルシチョフにキューバの核ミサイル撤去に踏み切らせたと考えられている。
ケネディとフルシチョフは、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより世界中からの尊敬を集めたが、後にフルシチョフはこの際の対応などを理由に1964年10月に失脚させられてしまった。