キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中最も重要な出来事だった。優れた政治手腕と側近からのサポートそして運によって、ケネディは戦争を望んだ政権中の強硬派のコントロールと、ソ連の脅迫によって脅威が増すことを防ぐことの両方を試み、それに成功した。後に、多くの人がキューバ危機を「世界が核戦争に最も接近した時」であると考えている。U-2偵察機
ケネディはピッグス湾事件の失敗以降も、キューバがソ連と急速に親密な関係を築いていたことからアメリカ空軍機によるキューバ軍施設の偵察活動を継続させており、実際にキューバ危機は、アメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソビエト連邦がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した1962年10月14日に始まった。
ケネディは国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置して対応に当たった。エクスコムの会議において、統合参謀本部のメンバーはキューバ奇襲攻撃を主張したが、マクナマラ国防長官やロバート・ケネディ司法長官は海上封鎖を主張した。ケネディは海上封鎖の実施を決断し、同盟国の支持を得るために元国務長官ディーン・アチソンをフランスのシャルル・ド・ゴールのもとに派遣するとともにイギリスのハロルド・マクミラン、西ドイツのコンラート・アデナウアーのもとに国務次官を送り、NATO主要国である彼らの支持を得た。また、OAS諸国にはアメリカ大使館を通して事態を知らせた。
元大統領のフーヴァー、トルーマン、アイゼンハワーをホワイトハウスに招きケネディ自身が状況説明を行い、さらに議会指導者に対しても自身で状況説明を行った。この議会指導者との会談ではフルブライト上院議員やラッセル上院議員は海上封鎖に反対し、キューバ爆撃を主張した。
国内の軍隊をアメリカ南東部に移動、空軍戦略航空軍団]を最高の警戒レベルに引き上げ、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開させて海上封鎖の準備を整えた。
10月22日午後7時、これらの準備が整った上でケネディは演説を行い、キューバに攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表し、キューバ国民に対して攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調した。この演説は合衆国海外情報局(USIA)を通してスペイン語に訳され中南米諸国に放送された。この演説の翌日、OASは全会一致で米国による海上封鎖措置の支持を決議した。ケネディの演説から2日後の朝に海上封鎖が発効し、潜水艦に守られていたソ連船18隻のうち16隻が洋上で停船・またはUターンし、翌日にはこれら16隻全てがUターンした。
10月23日にはケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開し、10月25日にはアメリカのアドレイ・スティーヴンソン国連大使がこれらの写真を用いてソ連のヴァレリアン・ゾーリン国連大使と対決し、劇的な効果を収めた。
しかしこの後もキューバ国内ではすでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。10月27日にはルドルフ・アンサーソン少佐が操縦していたU-2偵察機がキューバのSAM(地対空ミサイル)により撃墜される事件が起こった。これに対してエクスコムのほぼ全員がSAM基地の破壊で一致したが、ケネディは彼らを引き戻し、キューバに対する攻撃は、ベルリンやアメリカのジュピター・ミサイルが配置されているトルコに対するソ連の攻撃を誘発しかねないことを訴え攻撃しないことを決定した。
この間10月26日と10月27日にフルシチョフから書簡が届いており、前者は柔軟、後者は強硬な内容であった。ロバート・ケネディ司法長官とテッド・ソレンセン大統領顧問は前者に対する回答を起草し、これが送信された後、ロバート・ケネディはアナトリー・ドブルイニン駐米ソ連大使を司法省に呼び会見した。フルシチョフはこの回答に対する返事の中で、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイル基地を解体することに同意した。キューバ危機の後、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。後の歴史学者の間では、当時の副書記官ミコヤンからの強い進言がフルシチョフにキューバの核ミサイル撤去に踏み切らせたと考えられている。
ケネディとフルシチョフは、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより世界中からの尊敬を集めたが、後にフルシチョフはこの際の対応などを理由に1964年10月に失脚させられてしまった。
ケネディはキューバ危機が去った1963年6月10日に、アメリカン大学の卒業式において「平和のための戦略(THE STRATEGY OF PEACE)」という演説を行なった。
この演説の中でケネディは、「私の言う平和とは何か?我々が求める平和とは何か?それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制される『パックス・アメリカーナ』ではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」と語った。
さらに米英ソの間で核実験禁止条約に関する話し合いを始めることを明言し、「他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはない」と宣言した。この演説はノーカットでソ連の新聞やラジオで伝えられた。その後、1963年7月25日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結することになる。
しかし、この条約はその内容よりも、核軍縮への第一歩としてのシンボルであるという点に重点を置かれていたため、実際にはこの条約は大気圏内、海中、宇宙空間での核実験は禁止したが、地下での実験は禁止されていなかった。
ケネディはまた、イスラエルの核開発に対し強硬に対応した唯一の合衆国大統領として知られている。建国直後から、アメリカやイギリス、フランス等から明暗の力を得て核開発に邁進したイスラエルだが、ケネディは大統領就任直後から「イスラエルが核を取得することは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」という信念のもと、何度も外交勧告を行い、ついには査察団まで送り込んでいる。