1960年代から生まれ故郷のジョージア州の州議会議員を2期務めた後、州知事に立候補し当選。1971年から1975年までジョージア州の知事を務めた。
1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬し、最初は「ジミーって誰のこと?」と揶揄される程知名度が低かったが、ウォーターゲート事件により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民に巧みにアピールしたカーターは、現職のジェラルド・フォード大統領を破って一般投票の50.1%を獲得し勝利した。
就任式のあと、議事堂からホワイトハウスまで歩いて就任パレードを行った初の大統領である。このパレードは非常に好評を持って迎えられたために、その後多くの大統領がこれに倣っている。
国内政策アンディ・ウォーホルとともに
就任後に施行したいくつかの経済政策の失敗と、1979年のイラン革命に前後した石油危機などから、カーター政権中は高インフレと不況が国内を覆うことになった。任期中に外交において様々な問題が降りかかったこともあり、これらの国内問題を解決することはできなかった。
1970年代までアメリカでは、パンアメリカン航空やトランス・ワールド航空、ノースウエスト航空などが国際線の殆どと一部の国内幹線(国際線と接続する国内線が中心)を占め、アメリカン航空、ユナイテッド航空やデルタ航空、イースタン航空などが国内線と近距離国際線を担当するという棲み分けがなされていた。このために競争原理が働かずに、運賃の高止まりが続いていたアメリカの航空事情を変えることを目的に、航空会社設立の自由化と、国内路線の開設、料金設定の自由化などを盛り込んだ航空自由化政策「ディレギュレーション」政策を導入した(なお、この政策の推進を後押ししたのは、当時国際線進出を狙っていた地元のジョージア州のアトランタを本拠地とするデルタ航空であったと言われている)。
この政策の導入後、目論見どおりに航空会社間の競争が盛んになり、運賃の低下が実現することになり、サウスウエスト航空やジェットブルー航空などの格安航空会社の勃興を生むきっかけとなったと言われている。また同時に上記の大手のうち、パンアメリカン、トランスワールド、イースタンは競争に耐えられずに消えていき、皮肉にもこの法案の推進を後押ししたデルタ航空などの他のアメリカ国内の大手航空会社の衰退にもつながったと言われている。
外交政策キャンプデービッドでメナヘム・ベギンとアンワル・アッ=サーダートとともにSALTIIに調印するカーターとソ連のレオニード・ブレジネフ書記長ヴァンス国務長官と、1977年
冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトとイスラエルの間の和平協定・キャンプデービッド合意を締結させたるなど、中東における平和外交を推進した。なお1977年3月16日にマサチューセッツ州クリントンで行われたタウンミーティングにおいて、アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした。
また、パナマ運河のパナマへの返還などを実現させた。また、ニクソン政権時代から推進されてきたデタント路線を、SALT IIの締結などでさらに推し進めた。しかし、CIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけになり、イラン革命やその後のテヘランのアメリカ大使館占拠及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」の失敗、アフガニスタン侵攻 (1979)を許したことなどから、共和党などから、「弱腰外交の推進者」とたたかれることになった。
1979年には、前々任者のリチャード・ニクソン大統領による中華人民共和国との国交樹立政策を受け継ぎ、反対が強い中華民国と断交し、共産主義国家である中華人民共和国を訪問し国交樹立した。
職名氏名任期
大統領ジミー・カーター1977 - 1981