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James Dean
1954年
本名James Byron Dean
生年月日 (1931-02-08) 1931年2月8日
没年月日 (1955-09-30) 1955年9月30日(24歳没)
出生地 アメリカ合衆国 インディアナ州マリオン
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ショラム
国籍 アメリカ合衆国
職業俳優
活動期間1951年 - 1955年
主な作品
『エデンの東』(1955年)
『理由なき反抗』(1955年)
『ジャイアンツ』(1956年)
受賞
ゴールデングローブ賞
特別業績賞
1955年『エデンの東』
その他の賞
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ジェームズ・ディーン(James Dean、1931年2月8日 - 1955年9月30日)は、アメリカ合衆国の俳優。愛称はジミー(Jimmy)。
自身の孤独と苦悩に満ちた生い立ちを迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。非常に短い活動期間ながら、彼の存在は映画界のみならず、ロックンロール、ティーンエイジャーのライフスタイル、カウンター・カルチャーなどにも影響を与えた。 後にロサンゼルスの退役軍人病院の歯科技工士となる父ウィントン・ディーンと母ミルドレッド・ウィルソンのもとに、インディアナ州マリオンで生まれる。父はメイフラワー号に遡る家系であり、母はインディアンの血が半分入る家系だと、ジェームズは述べている。しかし、父母は行きずりの恋から始まった婚前妊娠だったことから、父ウィントンは息子のジェームズの誕生を喜ばなかったという。反対に、父親に無視される事となったジェームズに母ミルドレッドは深い愛情を注いだという。 1937年の6歳時、父が歯科技工士になるためロス近郊サンタモニカに越してきた。ジェームズが9歳の時、母ミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、父ウィントンは出身地のインディアナ州フェアマウントで農場を営むクエーカーの姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。 高校時代から演劇に興味をもち、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』[注 1]に心酔してハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。『理由なき反抗』の予告編に出演するディーン 『底抜け艦隊』等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年に『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて認められた。彼はこの役でアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。 しかしながら後述のように、ディーンが生きている間にその名を世間一般に知らしめたのは、結果的には『エデンの東』の演技を通してのみとなった(なお日本では、その『エデンの東』すら初公開は彼の死後であった)。そのため、生前における彼に対するイメージはあくまでも"新進気鋭の注目若手俳優"といった位置付けのみに留まり、惜しくもその人気と実力が存命中に確立されることはなかったのである。ジェームズ・ディーンペイントが施されたポルシェ・550スパイダーとプラハにあるバーガーショップ「James Dean Prague」 『ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ・550スパイダーでカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時15分にショラム
生涯
事故原因はディーン側のスピード超過による完全な過失として当初扱われたが、後に車両の残骸とディーンの体の位置が、違反とされる速度とは矛盾していることが指摘された(しかし彼が事故の約2時間前にスピード違反の切符を切られていたことも事実であった)[1]。事故直前にブラックウェルズ・コーナーにあるテキサコロストヒルズに隣接するガソリンスタンドで給油を行うディーンの写真が撮影されたが、これがディーンが亡くなる直前に撮られた写真として有名である。事故現場近くのモニュメント(水井康雄作)
同年10月8日、故郷フェアマウントのフェアマウントフレンズ教会で葬式が執り行われた。棺桶は彼の重傷を隠すために閉じたままであった。推定600人の会葬者が参列し、さらに2,400人のファンが建物の外に集まった。遺体はフェアマウントにある公園墓地に埋葬され、現在も献花が絶えない。また後年には、ディーンの世界的コレクターであった大西清太が彫刻家の水井康雄に依頼し、事故現場にモニュメントを設置した[注 3]。そこには「JAMES DEAN 1931Feb8 - 1955Sep30pm5:59 ∞」の文字が刻まれている。
『理由なき反抗』は死から約1か月後の10月27日に公開され、遺作『ジャイアンツ』はその約一年後の1956年10月10日に公開された。最初の長編出演(feature role)でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンを含めて5人しかおらず、また死後に2度ノミネートされたのは彼だけである。
人物像私は彼ほどに孤独な人間をほかに知らない。 ? デイヴィッド・ダイアモンド[2]