ジェームズ・クック
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オーストラリアから帰国

船の修繕を終えると直ちに航海は続けられ、クック一行は、ヨーク岬半島の北端を通過し、オーストラリアニューギニアの間のトレス海峡を抜けた。ヨーク岬半島を巡って、オーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認すると、クックは1770年8月22日にポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。

この航海でクックはただ1人の船員も壊血病で失わなかったが、これは18世紀においては奇跡的な成果であった。1747年に導入されたイギリス海軍の規則に則って、クックは柑橘類ザワークラウトなどを食べるように部下に促した。クックが部下にこれらの食物を摂らせた方法は、指導者としての彼の優れた資質をよく物語っている。当時の船員は新しい習慣には頑強に抵抗したので、最初は誰もザワークラウトを食べなかった。クックは一計を案じ、ザワークラウトは自分と士官だけに供させ、残りを望む者だけに分けてみせた。上官らがザワークラウトを有り難く頂戴するのを見せると、1週間も経たぬ間に、自分らにも食べさせろという声が断りきれぬほど船内に高まった、とクックは日誌に記している。

その後、一行は船の修繕のために、オランダ東インド会社の本拠地があるバタヴィアへ向かった。バタヴィアではマラリア赤痢が猖獗をきわめており、1771年に一行が帰国するまでに、タヒチ人のトウパイア、バンクスの助手を務めたスペーリング、植物画家のシドニー・パーキンソンなど、多くの者が病を得て亡くなった。出発からバタヴィアまでの27ヶ月の航海ではわずか8名だった死者は、バタヴィア滞在中の10週間とバタヴィアからケープタウンまでの11週間に31名に達してしまった。

1771年6月12日午後、エンデバー号は南イングランドのダウンズに投錨し、クックはケントで下船した。スペースシャトルのエンデバー号、またエンデバー川は、この第1航海におけるクックの船の『エンデバー』にあやかっている。

帰国すると直ぐ航海日誌が出版されクックは科学界でも時の人となった。しかし、ロンドン社交界でクックの数倍の人気者となったのは、貴族階級の博物学者ジョセフ・バンクスだった。バンクスはクックの第二回航海にも同行する予定だったが、船の構造に不満を爆発させ直前で自ら任を降りた。


第二回航海(1772年 - 1775年)

第一回航海から帰還後、海軍大尉から海軍中佐に昇進したクックは、南方大陸(テラ・アウストラリス)の発見を王立協会により再び委託された。第1回航海のニュージーランド周航によって、ニュージーランドが南方の大陸とは繋がっていないこと、さらに、東海岸の測量によって、オーストラリアが大陸であろうことも、既に明らかにされていたのだが、テラ・アウストラリスはさらに南に存在するはずと王立協会はまだ信じていたのだった。

クックは帆船レゾリューション号を、トバイアス・ファーノーが僚船アドベンチャー号を指揮した。一行は、きわめて高緯度の地域を周航し、1773年1月17日にヨーロッパ人として初めて南極圏に突入し南緯71度10分まで到達した。これがいかに偉業であったかは、次の南極圏突入が50年後だったことからも明らかである。南ジョージア島南サンドウィッチ諸島もこの南極航海で発見された。しかし、南極圏の濃い霧によってクックとファーノーははぐれてしまう。クックは南極探検を続けたが、ファーノーはニュージーランドへ向かうも、マオリ族との戦いで部下を失い、やむなく先にイギリスへ帰還することになった。

クックはもう少しで南極大陸を発見するところであったが、南方大陸が人類が居住可能な緯度には存在しないことを確かめ、伝説の南方大陸の探索に終止符を打った。補給のため北のタヒチへ進路を取り、オマイというタヒチ人の若者を伴って再び南へ向かったが、オマイは第一回航海のトウパイアほどは太平洋の地理に明るくなかった。帰り航海では、1774年にトンガイースター島ニューカレドニアバヌアツに上陸した。一行の帰国報告によって、テラ・アウストラリスの伝説は沈静化した。クロノメーターが活躍し正確な経度の決定が行われたことも、第二回航海の大きな業績であった。

クックは帰国後に海軍大佐 (ポスト・キャプテン) に昇進し戦艦ケントの指揮を委ねられたが、翌日にはそれを解任され、名誉職であるグリニッジの海軍病院の院長に任命された。壊血病予防に対する貢献に対して王立協会からメダルを授与され、特別会員に推挙もされた。しかし、彼は海から離れるのには耐えられなかった。自筆原稿による航海記を書き上げた直後、クックは第三回航海に出帆した。


第三回航海(1776年 - 1780年)

巷間では、ロンドン市民の好奇の的となっていたオマイをタヒチに戻すために航海が行なわれると噂されたが、第三回航海の公式の目的は、北極海を抜けて太平洋大西洋をつなぐ北西航路を探索することであった。クックは再びレゾリューション号の指揮を取り、チャールズ・クラークが僚船ディスカバリー号の指揮をとった。オマイをタヒチに返した後に、クックらは北へと進路を取り、1778年にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となった。クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した。

北アメリカの西海岸を探検するためにクックは東へ航海し、バンクーバー島のノコタ・サウンドの中のユーコートにあるファーストネーションズ村の近くに上陸したが、ファンデフカ海峡は見過ごしてしまった。この北洋航海でクックは、カリフォルニアからベーリング海峡に至るまでを探検、海図を作製し、アラスカの今ではクック湾として知られている場所を発見した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki