シンザン
出会い最短記録!!
B分で即アポHも可

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


シンザン鉄「シンザン鉄」(京都競馬場)

1月に厩務員の中尾はシンザンの右の後ろ脚の爪が出血しているのを発見した。原因は後ろ脚の脚力が増した結果踏み込みが深くなり、後ろ脚が前脚の蹄鉄にぶつかっていることにあると判明し、武田が対策を考えた[22]

試行錯誤[23]の結果、装蹄師の福田忠寛とともに、後ろ脚の蹄鉄にスリッパのようなカバー[24]を付けて後ろ脚の蹄を保護し、かつカバーがぶつかる衝撃から前脚の蹄鉄を守るために前脚の蹄鉄に電気溶接によりT字型のブリッジを張った「シンザン鉄」と呼ばれる蹄鉄を考案した[25]

通常の蹄鉄の耐用期間は3週間ほどであったのに対し、シンザン鉄は1、2週間ほどで溶接部分がはがれ、使用ができなくなるという特徴があった[26]。シンザン鉄の交換は、シンザンが武田厩舎にいるときにはその都度行われた[27]が、シンザンが厩舎を離れて遠征する時にはあらかじめ作成した複数のシンザン鉄を厩務員の中尾が持ち運んだ[28]

このシンザン鉄は通常の蹄鉄に比べ2倍以上の重量があったため、脚部に負担がかかり故障を招く恐れがあったが、シンザンはリスクを克服した。また、この特殊な蹄鉄の重さゆえにシンザンは調教で走らなかったという説もある[29]


5歳時(1965年)


競走内容

当初陣営は大阪杯を経て天皇賞(春)に出走する計画を立てたが、蹄が炎症を起こした影響から食欲が低下するなど体調が完芳しくなく、また腰痛を発症していたため武田は天皇賞(春)に出走しないことを決定した[30]。武田は計画を立て直し、オープンを経て宝塚記念に出走し、その後は秋まで休養させることにした。

シンザンはオープン競走に二度出走(いずれも優勝)した後宝塚記念に出走した[31]不良馬場への対応を不安視する声も上がったが、レースでは終始好位につけ、最後の直線コースに入ると外から先行馬を交わして後方から追い込んだバリモスニセイ[32]の追撃を退け勝利した。

前年に引き続き夏は京都競馬場で過ごすことになった。この年は前年ほど暑くはならず、また早い段階から氷の柱で馬房を冷やすなど十分な対策を施した[33]ため、シンザンは夏負けを起こすことなく過ごすことができた。

秋のローテーションとして武田は当初阪神競馬場のオープンに出走した後で関東へ輸送し、オープンを経て天皇賞(秋)に出走する計画を立てた。しかし阪神競馬場のオープンを優勝した直後に競走馬移動禁止令が出され[34]、禁止令が解除されるまでの間に出走を予定していたオープンが行われてしまった。武田はやむなく目黒記念への出走を決めた[35]。シンザンは63kgという重い斤量を課されたがそれを克服し、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし優勝した。

天皇賞(秋)では目黒記念でシンザンに敗れた加賀武見騎乗のミハルカスが大逃げを打ったが、シンザンは直線でミハルカスを交わして先頭に立ち、そのままゴールし優勝した。栗田にとっては初の天皇賞優勝で、レース後の表彰式で涙を見せた[36]。なお、この競走でシンザンの単勝支持率は78.3%[37]で、単勝の配当は100円元返しであった[38]

この後、平場オープン競走を一戦はさみ有馬記念に向かった。単勝1.1倍の圧倒的1番人気で、前年3位だった人気投票も1位となっている。シンザンは第4コーナーで逃げたミハルカスに並びかけたが、ミハルカスに騎乗していた加賀はシンザンに馬場状態の悪いインコースを走らせるために故意に外へ進路をとり、外側のラチ近くを走行した。しかし、シンザンはミハルカスのさらに外を通ってミハルカスを交わし、優勝した。この時レースを撮影していたテレビカメラの視界からシンザンが消えてしまい、「シンザンが消えた!」と実況された[39]。レース後松本は「シンザンが外を回れと言った。」とコメントした[40]


ローテーションを巡る武田と栗田の対立

有馬記念を前に、武田はそれまで中山競馬場のレースに出走したことがなかったシンザンのスクーリングと、天皇賞(秋)からのレース間隔が開くことを避けるために、オープンに出走した後連闘で有馬記念に出走することを決めたが、栗田はこれに強く反対した。オープンでシンザンは2着に敗れたが、勝ったクリデイが関西では無名の馬であったことにショックを受け、深酒を煽り泥酔した挙句倒れ[41]で病院へ搬送される事件を起こした[42]。これに激怒した武田は栗田を降板させ[43]松本善登を騎乗させることを決定した[44]。さらに、後に行われたシンザンの引退式でも栗田ではなく松本と武田博が騎乗した[45]

なお、シンザンのローテーションを巡る両者の対立は前年の東京優駿の前にも起こっており、この時は東京優駿へ向け、武田が調教だけでは仕上がらないとしてオープンへの出走を挟むことを決定したのに対して栗田はシンザンの能力を考えれば出走は不要と主張し、出走が決まった後にはレース直前の調教で武田の指示よりも遅く走らせた[46]


シンザンの引退

目黒記念を前に馬主の橋元は、武田に対し有馬記念を最後にシンザンを引退させ種牡馬にすることを打診した[47]。天皇賞優勝後、武田は中村広厩舎で催された祝勝会の場でシンザンを有馬記念を最後に引退させることを発表した。シンザンには1966年も現役を続行して海外遠征することを望む声もあったが、武田はシンザンが三冠を達成した時期にアメリカに遠征しワシントンDCインターナショナルに出走したリユウフオーレルが惨敗しその後故障を発症して引退したのを目の当たりにし、「決して遠征させない」と決意していた[48]


出会い最短記録!!
B分で即アポHも可

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:83 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki