シルクロード(Silk Road)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹の道とも呼ばれる。現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。
目次
1 用語の歴史
2 シルクロードの起点と終点
3 海のシルクロード
4 シルクロードと日本
5 関連する現代的事象
5.1 シルクロードを題材とした作品
5.2 「シルクロード」の名を冠した製品
6 参考文献
7 外部リンク
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シルクロードという語は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『シナ China 』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセンSeidenstrassen (ドイツ語で「絹の道」の意)として使用したのが最初で、彼の弟子ヘディンがその中央アジア旅行記の一つの書名にこの言葉を使用して以来有名になった。
リヒトホーフェンやヘディンらこの語の元来の使用者は、東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交通路を意図していたが、のちには中国を起点・終着点とする国際交易路を広く指しても使われるようになった。
現在の日本ではときには、シルクロードの通過する地域である中央アジアを地域的に指す言葉としても使われることがあり、日本ではシルクロードの通る地域は、中国で伝統的に言った「西域」(さいいき)という言葉とともに広く知れ渡っている。
一般に対するシルクロードの語の用法とは別に、日本の歴史学界では「シルクロード」の概念を巡っての論争があった。すなわち、日本では戦前に中国史研究の延長として始まった中央アジア研究は、漢文を史料として用いることから必然的に、仏教伝来史、東西交渉史、中国西域経営史などのかたちを取り、シルクロード研究の重要性を強調してきた。それに対し、戦後になって成長してきた当時の新進中央アジア研究者たち(間野英二ら)は、彼ら自身が研究に用いてきた史料である、中央アジア住民の書いたテュルク語、ペルシア語などの歴史書や文学作品の叙述に立脚し、旧来の研究の中央アジアを貿易中継点に過ぎないかのごとく見る視点を批判したのである。
「シルクロード」概念の批判者によれば、現地の人々が残した記録には中国や東西交易についての話題はほとんど触れられておらず、したがって中央アジアの内側からの世界観では「シルクロード」に類する概念は存在せず、現地人には中央アジアを貫く東西交通路の存在はほとんど意識されていなかった、という。むしろ彼らの社会生活の中で重視されていたのは、南のオアシス都市の定住民と北の草原の遊牧民の間で繰り広げられる南北の関係であり、正しい中央アジアの歴史理解のためにはシルクロード史観を脱して現地住民による記録を中心に据えた研究を行わなければならないことを批判者たちは訴えた。こうした視点のもとに、批判者たちは「シルクロード」という用語の学術的な使用にも否定的である。
一方、中央アジア研究者の中にも、現地の住民によって書かれた史料であれば日常的な活動である交易に関する記録があるとは限らない(護雅夫)、といったシルクロード史観批判論に対する批判も生じた。また、実際にイスラム化以前の古代ウイグル語などの文書の中には交易に関する記述がふんだんに含まれており、イスラム化後に書かれたペルシア語やテュルク語の史料だけを見てシルクロードを否定するのは無理(森安孝夫)という反論もある。しかし、こうした反論を行う研究者においても、シルクロードが中国とヨーロッパとを繋ぐ単なる東西交易の通過路であったとする見解は取られず、東西関係だけでなく南北関係も含めた中央アジアの交易路としてシルクロードを理解すべきであると考えられている。
この論争は結局、結論が出ないまま終息していくが、論争の影響もあってか最近は日本の歴史学界では、一般に ⇒膾炙(かいしゃ)したような東西の通過路的なシルクロードのイメージに対しては否定的な見解も根強い。現在では「シルクロード」という言葉を「括弧(かっこ)付き」で用いる研究者も少なくない。
シルクロードを中国とローマとの間の主要貿易路とするならば、その中国側起点は洛陽(河南省洛陽市。長安(陝西省西安市)という説も有力ではあったが、2007年4月に中国政府は洛陽であると認定)であり、その欧州側起点はシリアのアンティオキアと定義できる。この名称をリヒトホーフェンとヘディンが使用した意味で理解すれば、この隊商路の主要な路線は次の3本になる。
敦煌(とんこう)からアルトゥン山脈に沿い、ホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南辺のオアシスを通過してパミール高原に達する南方の交通路 (西域南道)。