その後、ヘレニズム期において、ギリシャはカルタゴと戦争状態に入った。カルタゴは、シチリア島の南西のそれほど遠くないアフリカ本土にあり、シチリア島に植民都市もあった。紀元前410年に再びカルタゴと戦争状態となり、第二次シチリア戦争において、カルタゴはシチリア島からギリシャを駆逐しようとし、両軍が多大な犠牲を払った。紀元前315年からの第三次シチリア戦争で、カルタゴはシラクサとメッシーナが支配する島の東部を除いた他の領域を支配下においた。
紀元前280年からはカルタゴが支配していたシチリアの奪還及び共和政ローマへの牽制を目的として、エピロス王ピュロスがシチリアへ攻め込んだものの失敗に終わった。
紀元前256年、シラクサに侵攻されたメッシーナは、ローマに救援を求め、これがローマとカルタゴによる第一次ポエニ戦争の発端となった。戦争の終結する紀元前242年には、シチリア島全域がローマによって占領された。第二次ポエニ戦争でのカルタゴの初戦の快進撃によって、シチリア島の諸都市はローマに反乱を起こし始めたが、ローマは軍団を派遣し、これを鎮圧し、(シラクサの包囲戦の最中にアルキメデスが戦没している)最終的にカルタゴはシチリア島から追い払われ、シチリアはローマの属州(シキリア属州)となった。
紀元前210年にローマの執政官マルクス・ウァレリウス・ラエウェヌスが元老院に向かって述べた「一人のカルタゴ人もシチリア島では生かしてはならない」という言葉通りに、シチリア島のカルタゴ寄りの人々が多く殺された。このあと、6世紀の間、シチリア島はローマ帝国の属州であった。僻地の田舎のような扱われ方だったが、シチリア島の農作物はローマ市にとって重要な食料供給源であった。強いてローマ化しようとはしなかったので、島はギリシャ時代の様子を多く残していた。
紀元前135年及び紀元前104年の2度に渡ってシチリアでローマを揺るがす奴隷の大反乱が起こった(シチリア島奴隷反乱)。マルクス・トゥッリウス・キケロの弾劾演説で有名なガイウス・ウェレス( ⇒en)によるシチリアでの悪政があったのは紀元前73年から紀元前71年にかけてのことであった。
紀元前49年1月からの内戦では当初グナエウス・ポンペイウスらの元老院派がシチリアを押えていたが、同年4月までにガイウス・ユリウス・カエサル派が奪取した。ポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスは、父が殺害され、内戦で元老院派が敗北した後も反カエサルを貫き、第二回三頭政治にも反対してシチリア島を本拠にイタリア半島を海上封鎖した。これにより、ローマとセクストゥスは紀元前38年よりシチリア海域を舞台に戦争状態となった(シチリア戦争)。海上封鎖をつづけるセクストゥスに対し、オクタウィアヌスは軍を差し向けたが大敗。その後、ナウロクス沖の海戦で、オクタウィアヌスは腹心の部下マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの活躍とマルクス・アントニウスの支援により 紀元前36年9月3日セクストゥス軍を撃破した。なお、この直後レピドゥスが打倒オクタウィアヌスを企てシチリア島を独占しようとしたものの、その部下がオクタウィアヌスに通じて失敗、同年中に失脚した。帝国内を視察して回った皇帝ハドリアヌスが125年にシキリア属州を訪れた。フィレンツェの町を破壊させるトティラ
440年、ヴァンダル人の王ゲイセリックがシチリア島を占領した。その数十年後、東ゴート人が侵入してきたが、535年、東ローマ帝国の派遣したベリサリウス将軍によって征服された。しかし、東ゴート王国の新たな王トティラは、イタリア半島を席巻したのち、550年再びシチリア島を奪取した。
552年、彼はまたもや東ローマ帝国の派遣した将軍ナルセスによって征服され、殺された。シチリア島は、東ローマ帝国の領土となり、662年から668年に皇帝コンスタンス2世が暗殺されるまで、シラクサが帝国の首都であった時期もある。その後、827年から965年に侵入してきたアラブ人によってシチリア島は征服された。イスラーム教徒による支配の間には、文化的多様性と宗教的寛容さが保たれていた。ルッジェーロ2世
1060年から1090年に至るノルマン人の侵略に続いて、1130年に成立したノルマン・シチリア王国においてもそれは同様であった。そこでは、イスラーム教のアラブ人、ギリシア正教のギリシア人、カトリックのラテン系の人びとが生活しており、その宮廷にはそれぞれ2名ずつ計6名の書記官がはたらいた。