芸能人の脳内をのぞく
TVで話題!脳内チェック
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1985年〜1987年
1985年1月10日、オープニングでオーケストラ・コーラス・指揮者を紹介。オープニングはいつも音は事前収録だったが、この日のみ生演奏。
1985年4月18日、司会の久米宏が翌週で『ザ・ベストテン』を降板すると発表。半年後の同年10月からテレビ朝日で『ニュースステーション』を担当するための降板だったが、当時このことはトップシークレットで、黒柳や番組開始当初からのスタッフである山田修爾プロデューサーにすら知らされず、黒柳は「足腰が動かなくなるまでやろう」と久米を翻意させようとしたという。当初は3月で降板の予定だったがスタッフが4月まで延長させた。この時点で久米は他のレギュラー番組も全て降りていた。当初は黒柳も辞める気だったが、スタッフに説得され最終回まで司会を続けた。この日のゲストの中森明菜・松田聖子が涙を流していた。
1985年4月25日、久米宏が番組を卒業。翌週から松下賢次アナウンサー・タモリ・寺尾聰・小沢昭一・生島ヒロシらが司会の代わりを務めた。
1985年10月3日、2代目男性司会者として小西博之が初登場。9月26日にスタジオに登場してエンディング時に紹介されている。
1985年10月17日、静岡・日本平から「400回記念 ザ・ベストテンin静岡」を放送。静岡放送はラジオでも同時放送された。
1986年春頃からテレビ番組出演を必要としないアーティスト系も常時ランキングされるようになり、出演拒否する歌手が毎回半数近くにのぼり、当初は「レコーディング中」「コンサート中」を理由にしていたが、松下が司会になって数週間後には「各方面との折り合いがつかず」という理由が使われるようになる。『ザ・ベストテン』はこの頃から徐々に視聴率を下げていった。
1986年4月10日には、第1位の少年隊の歌唱終了後、放送2日前に自殺した岡田有希子に対して黒柳が「18歳の有希子さんに、悩みを私達分かってあげられなくて本当に申し訳ないし、又残念に思っています」「有希子さんの明るい笑顔と美しいお顔が、永久に皆さんの心に残る事を祈ってます」と、視聴者に対して涙ながらのコメントを述べた。この日スタジオに同席していた、岡田と懇意だった中森明菜と南野陽子、西村知美らも哀しみの表情を浮かべていた。
1986年9月25日、小西博之が1年を区切りに司会を卒業すると発表。この日黒柳はアフリカに行っており、VTRで小西にメッセージを伝えた。数日後が小西の誕生日であったため、ケーキが用意され菊池桃子からプレゼントをもらった。
1986年10月2日には、3代目男性司会者の松下賢次アナウンサーが登場。正式な司会初日にもかかわらず5組も欠席。
1986年10月9日、長野県松本市のあがたの森公園から「450回記念 ザ・ベストテンin松本」を放送。ランクインした中山美穂は放送終了30分前に到着の特急あずさで松本入りし、特設ステージで歌を披露し地元のファンを喜ばせた。
1986年12月4日の1位、杉山清貴の「最後のHoly Night」は、ザ・ベストテン史上最低得点での1位(7559点)。
1987年4月2日に「ザ・ベストテン延長戦」を放送。これはランキングを1位から順番に発表し、時間が許すまでランキングを発表していくが、歌手が○×クイズに正解しないと歌えない、という内容。この時西村知美(「シンフォニーの風」、16位)がクイズに連続して間違え(他の出演者は一発正解)、進行が止まってしまったため司会の松下賢次がわざわざ「マルか、バツか?」と言ったのに、西村は「バツ?」と大ボケぶりを発揮した。さすがに溜まりかねた松下は、次の問題で「マルと言って下さい!!」と答えを教えていた。この日の19位は森川美穂「おんなになあれ」。時間がギリギリまで迫っており、何とか歌うことはできたが1番だけであった。20位の曲のみランキングボードが回らなかった。
1987年5月7日、どうしても1位が獲れないとんねるずが5回目(3曲目)の2位獲得。5回とも1位の歌手が違うという珍記録。
1987年10月8日、この週が10組フル出場した最後の回になった。またこの回と翌週15日は黒柳が番組を欠席、代わりに全国のJNN各局の人気女子アナがTBSに集合し、松下アナのアシスタントを務めた。当時独身だった松下アナの番組内でのお見合いも兼ねた。
1987年12月31日に『ザ・ベストテン電リク祭り』を開催。過去の「ザ・ベストテン豪華版」のハプニング集・5周年記念に放送されたベストテンフェスティバルからの映像が多く使用された。スタジオにはC-C-B・クリスタルキング・桜田淳子・島田奈美・光GENJI・西村知美・寺尾聰らが集まった。また、裏番組の『NHK紅白歌合戦』に有力視されながら出場できなかった南野陽子や酒井法子らも駆けつけた。中継先は、翌年3月で廃止される青函連絡船の青森駅やビートたけしがテレビ朝日の生番組で草野球をしていた神宮球場などから。なお、VTR出演だが、ベストテンに2年7ヶ月ぶりに登場した久米宏が『ニュースステーション』のセットからコメントを出した。この日、生歌を披露したのは光GENJI・寺尾聰・森川由加里・クリスタルキングの4組。しかし、放送時間の関係で光GENJIの歌唱中に終了。
また、番組の出演回数が200回を超え当時の番組出演最多記録を誇った田原俊彦に対して、寺尾聰の赤いソファーになぞらえた名前入りの青いソファーが贈られ、スタジオに置かれることになった(田原は最終回まで246回と出演最多記録を伸ばした)。
1988年〜番組の終焉
1988年から「月間ベストテン」開始。月間ベストテンに限り、歌われる曲すべてに歌詞のテロップが出た。ところが、1988年2月25日に池田政典の「FORMULA WIND」が通常のウイークリーで10位で初登場したものの、当日は月間ベストテンだったためスタジオでの生歌唱ができず(事前にファンを招いてスタジオで熱唱したが、映像として流れたのは10秒程度だった)、翌週には圏外落ちしてしまった。その後は、月間ベストテンで初登場した歌手がいれば、トップバッターで歌わせる処置がとられた。
1988年からランキングボードが老朽化のため、新しいものに変更された。制作費は数千万円。得点の表示が4桁から6桁に増え、年間ベストテンの得点表示が可能になった。また、ランプが円から星型になった。4桁時代のランキングボードは、1987年の豪華版終了後に視聴者プレゼントされた。なお、実際に6桁全てを使用したのは計16回。
1988年からおなじみのオープニングの絵柄を変更。また、ランキングボードの隣に日付のテロップが設置されるようになる。
1988年、550回目記念の公開生放送を行えず、552回目に「ザ・ベストテン大移動・鹿児島編」を放送。視聴率は鹿児島地区では70.5%を記録したが、関東地方では初の1ケタ(9.8%)。この年が最後の公開生放送になった。
1988年3月31日、2回目の「ザ・ベストテン延長戦」を放送。この日は月間ベストテンという形での延長戦になった。しかし、ランキング紹介が途中(17位)で終わるなど、前年度より段取りの悪い内容だった。理由はクイズまでの映像が長すぎたこと、出演しない歌手のクイズに黒柳が代理で答えたりしたためである。この年で延長戦は廃止された。これらの原因が後に視聴者離れを加速(視聴率初めて8%台にダウン)し、終了に至った遠因とされている。
1988年6月16日・23日の2週に限り、「私は黒柳」というテーマで黒柳徹子のまねをした女性が松下アナウンサーと司会を進行。サザンオールスターズが3年ぶりに出演。
1988年8月4日は、光GENJI・薬師丸ひろ子を迎えて箱根からの生中継。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:Smilegreen