当時のインドでは、ウパニシャッド哲学を基盤としながら、ヴェーダ経典の権威を認めない六師外道と称される六人の思想家達、ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、自由な思想を展開していた。また社会的にも16の大国、多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増すさなかにあった。
釈迦出家の動機は、釈迦族が農耕民族であったため、幼少の頃に田畑の虫をついばむ鳥を見たことなどにより日常的にこの世の無常を感じていたが、決定的となったのは四門出遊の故事である。ある時、釈迦がカピラヴァスツ城の東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。
私生活において一子ラーフラをもうけたことで、かねてよりの念願の出家の志を29歳、12月8日夜半、王宮を抜け出て果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。そしてウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。そして出家して6年(一説には7年)の修行の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑、ろくやおん)へ去った。
そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ネーランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、49日間の観想に入った。そして、ついに12月8日の未明に大悟する。これを「成道」といい、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修した。ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。
釈迦は、この悟りを得た喜びの中で、このまま浸っていようと考えた。一部の経典には「このまま無余涅槃に至ろうと考えた」との記述があることから、3カ月間禅定にあるまま死を迎えようとされたと思われた。ところが梵天によって衆生に説くよう勧められた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むバーラーナシー (baaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
そこで釈迦は鹿野苑へ向かい、初めて五比丘にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この5人の比丘は、当初は釈迦が苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、釈迦は喜んだ。この時初めて、釈迦は如来(tathaagata、タターガタ)という語を使った。すなわち「ありのままに来る者」「真理のままに歩む者」という意味である。それは、現実のありのままの姿(実相)を観じていく事を意味している。
初転法輪を終わって「世に六阿羅漢(漢:応供、梵:arhan)あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。次いでバーラーナシーの長者、ヤシャスに対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。
その後、ヤシャスやプルナなどを次々と教下したが、初期の釈迦仏教教団において最も特筆すべきは、三迦葉(さんかしょう)といわれる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。当時有名だった事火外道(じかげどう)の、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa)、ナディー・カッサパ (nadi kassapa)、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa) を教化して、千人以上の構成員を持つようになり、一気に仏教は大教団化した。
ついでラージャグリハ(raajagRha、王舎城)に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。
王舎城に入って、ビンビサーラ王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎を寄進する。ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人はシャーリプトラであり、もう一人はマウドゥガリヤーヤナであった。この二人は後に釈迦の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈迦の弟子で、最初に教下された五比丘の一人であるアッサジ比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、シャーリプトラは叔父の摩訶・倶?羅(まか・くちら、長爪・梵士=婆羅門とも)を教化した。この頃にマハーカッサパが釈迦の弟子になった。
以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハ(王舎城)を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者とだんだんと帰依した。このようにして、教団の構成員はだんだんと増加し、ここに教団の秩序を保つために、いろいろの戒律が設けられるようになった。
これより後、最後の一年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかはじゅうぶんには明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァスツの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またスードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。