ゴータマ・シッダッタ
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入滅

釈迦の伝記の中で最も克明に今日記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァスツに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャクリハから開始されることになったのであろう。

このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子が兵をあげて王位を奪い、ヴィルーダカとなった。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトゥル(ajaatazatru、阿闍世王)を頼って向かったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。

ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァスツの攻略にむかう。この時、釈迦はまだカピラヴァスツに残っていた。故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァスツは攻略された。しかし、またこのヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)によって死んだと記録されている。かくして釈迦はカピラヴァスツから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。

釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ ((パ)ambalaTThika) へ、ナーランダを通ってパータリガーマ ((パ)paaTaligaama) に着いた。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ (paataliputra、華子城) であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡りヴァッジ国のコーリー城に着いた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。釈迦はこの法鏡を説いてから、四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道との尊い真理を洞察し悟った。そして生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もはや生存に戻ることはない」と説法した。

次に釈迦は、このコーリー城を出発しナディカガーマを経てヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバーパリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、戒律や生天の教え、四諦を説いた。やがてここを去ってヴェールバ村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかにもつことができました」と言った。これについて釈迦は、

比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである。

と説法した。これが「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教えである。

やがて雨期もおわって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ、永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サーランダダ廟、サワラ廟などを訪ね、托鉢から戻って、アーナンダを促してチャパラの霊場に行った。ここで聖者の教えと神通力について説いた。

托鉢をおわって釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見おさめである」といわれ、バァンダガーマ (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ (hatthi)、アンバガーマ (ambagaam)、ジャンブガーマ (jaambugaama)、ボーガガーマ (bhogagaama)を経てパーヴァー (paavaa) に着く。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになる。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaara) にむけ、その近くのヒランニャバッティ河のほとりにいき、マルラ (malla) 族のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。時に紀元前386年2月15日のことであった。これを仏滅(ぶつめつ)という。釈迦の入滅年時については、古来いろいろの説がある。一般には紀元前486年(衆聖点記説)を用い、宇井伯寿の前386年説も仏教における学会で用いられている。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

さて、仏陀入滅の後、その遺骸はマルラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた8大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマルラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否した。そのため、遺骨の分配について争いが起こるが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れてきたマウリヤ族の代表は灰をえて灰塔を建てた。ちなみに、その八大国とは、
クシナーラーのマルラ族

マガダ国のアジャタシャトゥル王

ベーシャーリーのリッチャビ族

カビラヴァストフのシャーキャ族

アッラカッパのプリ族

ラーマガーマのコーリャ族

ヴェータデーバのバラモン

バーヴァーのマルラ族

である。 西暦1898年にカピラヴァットゥから約13キロ隔たったピプラーワーで、イギリスの駐在官ペッペが発見した遺骨の壺は考古学的な鑑定の結果、現在ではもっとも真の仏舎利として信憑性があるとされている(中村元(1970)および外務省HP参照)。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている。

入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。


入滅後の釈迦の評価

釈迦の入滅後、インドに於いて、仏教勢力は拡大するかに見えた。が、待ち受けていたのは、ヒンドゥー教からの攻撃と弾圧であった。ヒンドゥー教勢力からの反撃に遭った仏教は、インドでは定着する事はできなかった。さらに、ヒンドゥー教は追い討ちをかけるように、釈迦に新たな解釈を与えた。釈迦は、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)として地上に現れたとされたのである。偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざける為に、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象にされてしまった。この結果インドでは、仏教は消滅への道をたどってしまった。インドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降である。

釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は知る人ぞ知る存在であるが、崇拝の対象でもある。ネパールでは現在、ヒンドゥー教徒が86%、仏教徒が8%となっている。ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。尚、ルンビニは1997年にユネスコ世界文化遺産に登録された。

仏教は仏滅後100年、上座部大衆部に分かれる。これを根本分裂という。その後AD100年頃には20部前後の部派仏教が成立した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen