コロンビア
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コロンビア合衆国まで首都ボゴタのカテドラル

1832年、亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領になると、保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。

大コロンビア時代からから続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これによりコロンビアは現在まで続く二大政党制となったが、寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。

1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペスはイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採った。以降1880年までコロンビアでは自由主義者の政権が続いた。そして1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。

1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラが蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国となった。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。

1880年に保守派のラファエル・ヌニェスが自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。

1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛りこんで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。


ボゴタ暴動までレティシアを巡ってのペルーとの戦争に備えるコロンビア軍(1932年)

1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。1899年にはラファエル・ウリベ・ウリベ将軍の指導する自由党急進派による蜂起が起こり、1902年まで続く「千日戦争」勃発し、およそ10万人の犠牲者を出した。かねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国のパナマ運河地帯永久租借案を、コロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。

保守党のラファエル・レイェスが大統領に就任して独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によって継承された。1921年にパナマ問題が解決すると米国からの膨大な投資が流れ込み、対米従属が進んでいった。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。

1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラが労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。

1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホが大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社のバナナ労働者虐殺事件を批判したことから、カリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。


ボゴタ暴動、コロンビア内戦ホルヘ・エリエセル・ガイタン。彼の暗殺をきっかけにボゴタソが始まったグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍現在のボゴタ。標高2600mに800万人が居住する

1946年以降の十数年間はラ・ビオレンシア(暴力)の時代と謂われ、争いが頂点に達した。

1946年に保守党政権が誕生すると、徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺されると、自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。

1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧し、反共政策の下で朝鮮戦争にラテンアメリカ諸国で唯一国連軍に軍隊を派遣した。

地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争の英雄グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。

ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年ロハスが人民弾圧をおこなった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起し(ビジャリカ戦争)、1956年ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪」事件の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。

1958年支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線」体制が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。

キューバ革命の影響を受けて、1961年に進歩のための同盟が発足すると、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らずゲリラ活動は活発化し、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki