元来はローマ帝国によるゲルマニア地方に居住する諸部族に対する他称である。彼ら自身は、同じコーカソイド人種に属し、用いる言葉(ゲルマン語派)や文化面において一定の共通性が存在したものの、「ゲルマン人」としての同族意識を持つ民族共同体を形成していたわけではない。後述する通りアングロ・サクソン人やゴート人という部族名こそがいわゆる民族名であり(元々、部族と民族の差異を客観的に決める事は難しい)、ゲルマン人というのはそれらゲルマニア地方出身の諸民族を総称する際に用いられた用語に過ぎず、民族として存在していたとは言い難い。しかし近代ドイツにおける民族主義の勃興に伴い、古代の時点で「ゲルマン民族」という統一された民族共同体が存在しており、ドイツ民族はそのゲルマン民族の血統を継ぐ優秀な民族であるとする説が唱えられる様になった(ドイツナショナリズム)。この学術的根拠を伴わない政治的イデオロギーに満ちた「ゲルマン民族」は第二次世界大戦期のナチス時代に最も盛んに喧伝され、アーリアン学説と並んでナチスの人種政策の根幹を成した。
元々は言語面の類似性による区分けに過ぎなかったインド・ヨーロッパ語族を、ドイツ人学者のマックス・ミュラーが同属意識を持つ民族共同体であると主張した事に始る。ミュラーは己の考えるその民族に、インド・ヨーロッパ語族の一派でイラン高原とインド亜大陸に侵入し、諸文明を築いたとされる集団の自称「アーリア」(「高貴な者」の意)の名を冠してアーリア人と名付けた。
上述のドイツナショナリズム勃興期の指導者達は自民族の優等性を主張する一環として、インド・ヨーロッパ語族に属する諸民族の中で最も優秀なゲルマン民族こそがアーリア人であり、従ってゲルマン人の正統な末裔たる自分達こそが名乗るにふさわしい民族名であると唱えた。こうした「ゲルマン人=アーリア人」的思想の影響を受けた者はゲルマン人をアーリア人と呼称したが、それを客観的に証明する根拠は乏しく、またアーリアン学説そのものの信憑性を疑われている今日では殆ど死に絶えた概念と言える。
その存在は古くは古代ローマ時代のガリア戦記・ゲルマニアに著されている。ゲルマン人は傭兵や同盟兵としてラテン人の古代ローマと関係を持ったが、ケルト人とは違い一定の距離を保ちローマと同化しなかったとされる。古代末期にローマが衰退するとゲルマン人達は大移動を繰り返し欧州各地に進出、現在のゲルマン系民族の伝播に寄与し、中世ヨーロッパ世界の形成に影響を与えた。
年表
紀元前80年頃 - ゲルマン人に関する記述がはじめて現れる。ギリシアの歴史家ポセイドニオスがガリア地方に侵入した部族について記述したとされる。これは後世の古代ローマの歴史家の引用で伝えられている。
紀元前58年〜紀元前51年 - カエサルのガリア遠征。「ガリア戦記」の中でゲルマン人について記した。
9年 - トイトブルクの戦いでローマ帝国がゲルマン人に大敗。以後、この地域でのローマ帝国の拡大がとまった。
98年 - 古代ローマの歴史家タキトゥスが「ゲルマニア」を著す。
2世紀頃 - 最古のルーン文字成立。
375年 - ゲルマン民族の大移動がはじまる。フン族の圧迫を受けた西ゴート族がドナウ川を超えてローマ帝国領内に侵入した。378年のアドリアノープルの戦いでローマ軍は敗退し、皇帝ウァレンスは戦死。以後、ゲルマン諸部族や他の部族が各地に王国をうちたてた。
415年 - 西ゴート族が西ゴート王国を建国。ガリア、ヒスパニア(イベリア半島)を支配する。
451年 - カタラウヌムの戦い。ローマ軍団の傭兵となり、共にフン族を撃退する。
5世紀 - グレートブリテン島 (現在のイギリス) にゲルマン部族の一派アングロ・サクソン人、ユート人が侵入。ローマ帝国の後退と同じ頃にブリテン島に侵入し、七王国をうちたて覇権を争った。
476年 - 西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅亡。オドアケルは、初代「イタリア王」となった。イタリア王は、オドアケルを倒した東ゴート王国に継承された。
481年 - フランク族のクロヴィスがメロヴィング朝を創始。アリウス派キリスト教からカトリックに改宗して、旧西ローマの住民との融和をはかった。
732年 - トゥール・ポワティエ間の戦いイベリア半島から侵入してきたイスラム勢力をフランク王国が、現在のフランスにあるトゥール・ポワティエ間で撃退。