このようなジューコフの存在および人気は、スターリンの独裁政治にとって少なからぬ脅威となった。そのため1947年、モスクワから遠く、傘下の部隊も少ないオデッサ軍管区、後にウラル軍管区の司令官に左遷された。ジューコフ自身に逮捕の手が及ぶことは無かったが、直近の部下や親しい友人が身代わりとして犠牲になった。しかし、スターリンの死後、再び政界に復帰し、1953年国防大臣代理に、1955年国防大臣に就任した。1953年には国家政治保安部(秘密警察)長官であったラヴレンティ・ベリヤを逮捕、処刑するなどして、スターリン死後のソ連共産党の指導体制を支えた。モスクワ、マネージ広場に立つジューコフ像
1957年のヴャチェスラフ・モロトフらのいわゆる「反党グループ」との権力闘争では、ニキータ・フルシチョフを支持してこの危機を乗り切った。同年6月、ソ連共産党中央委員会幹部会員(政治局員)となったが、軍事面での政策においてフルシチョフと重大な意見の不一致が生じた。フルシチョフは、陸海の常備軍を削減し、抑止力の第一要因として戦略核兵器部隊を増強することで、浮いた人的および物的な資源を民間経済の発展に回そうとした。一方、ジューコフは軍の利益を第一に考えていたため、この政策には反対であった。フルシチョフは、軍に対する党の優位性を盾にしながら、ジューコフを大臣の職から解任し、中央委員会からも追放した。フルシチョフ自身の回顧録の中で、ジューコフがクーデターを企てていたと信じており、中央委員会の会議でこれを理由としてジューコフを告発し、追放したことが述べられている。敵よりも、味方を殺した数の方が多いとも言われる。
1964年10月、フルシチョフが失脚すると、レオニード・ブレジネフとアレクセイ・コスイギンが後を継ぎ、彼らによってジューコフの名誉は回復された。政界に復帰することはなかったが、ソ連において最も大衆に人気のある人物の一人であった。後に第二次世界大戦の回想録「追憶と熟考」(Воспоминания и размышления)を執筆し、世界30カ国、19ヶ国語、約800万部が出版された。日本では朝日新聞社より「ジューコフ元帥回想録」として1970年に出版された(現在は絶版)。
1974年に死去し、軍人として最高の栄誉をもって葬られた。
ソ連邦英雄(4度)、モンゴル人民共和国英雄。勝利勲章2個、レーニン勲章6個、十月革命勲章、赤旗勲章3個、一等スヴォーロフ勲章2個を受賞。第二次世界大戦中、最高司令官より41回の感状を授与された。
彼の名前は、防空軍事指揮アカデミーに冠された。モスクワ、サンクト・ペテルブルグ等には彼の名前の通りが存在する。モスクワ、エカテリンブルグ、オムスク、トヴェリ、イルビテ、ハリコフ、クルスク等には記念碑が、ジューコフ市には胸像が、故郷のストレルコフカ村には花崗岩の記念碑が建てられた。
1995年、ジューコフの生誕100周年を記念して、ロシア連邦政府はジューコフ勲章を新設した。
外部リンクウィキメディア・コモンズには、 ⇒ゲオルギー・ジューコフ に関連するマルチメディアがあります。
(ロシア語) ⇒Воспоминания и размышления The Memoirs of Georgy Zhukov
(ロシア語) ⇒Zhukov's Awards
(ロシア語) ⇒Shadow of Victory and ⇒Take Words Back , books by Viktor Suvorov, highly critical of Zhukov
(ロシア語) ⇒Соколов Б.В. Неизвестный Жуков: портрет без ретуши в зеркале эпохи, Мн.: Родиола-плюс, 2000. (B.V.Sokolov. Unknown Zhukov)
(ロシア語) ⇒Иосиф Бродский. На смерть Жукова (On the Death of Zhukov by Joseph Brodsky), 1974
⇒Georgy Zhukov
先代:
キリル・メレツコフ赤軍参謀総長
1941年2月 - 7月次代:
ボリス・シャポシニコフ
先代:
ニコライ・ブルガーニンソ連国防相
1955年 - 1957年次代:
ロディオン・マリノフスキー
カテゴリ: ソビエト連邦の軍人 | ソビエト連邦の政治家 | 1896年生 | 1974年没
更新日時:2008年8月18日(月)01:29
取得日時:2008/08/20 21:54