グレンコーの虐殺
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事件の影響

事件の情報が広まると、国内・国外から批判の声が上がり、名誉革命直後の不名誉な事件となってしまった。ウィリアム率いる名誉革命体制イングランドの威信は傷つき、これ以上強硬策に出ることができなかった。スコットランドを懐柔するいっぽう、事件の黒幕はキャンベル氏族に引き受けさせて不満をそらす必要があった。事件は結果的にジャコバイトに恰好の攻撃材料を提供してしまったが、その一方で氏族間の溝もまた深くなり、一致団結してイングランドと相対することも非現実的となった。


体制の動揺

事件は政権にとって一大スキャンダルとなった。特に問題となったのは背信行為であった。すなわち、マクドナルド氏族は敵同士でありながらも、慣習に従ってロバート・キャンベルらを客として遇し、2週間にわたって宿と食事を提供した。虐殺事件はその恩を仇で返した形となったのである。まずフランスで批判がおこり、ウィリアムと政府を激しく非難した。これがイングランド・スコットランドに飛び火し、スコットランドからはもちろん、知らされていなかった大部分のイングランド議員や支配層からも批判がまきおこった。政府は調査を始め、ステア伯がこの事件で主導的役割を果たしたことを突き止めた。ステア伯は審問を受け、1695年官職を追われた[7]。スコットランド側の不満はこれだけでは収まらず、ウィリアムはアフリカ・インド諸国会社[8]の設立申請を許可せざるをえなかった。

犠牲になったマクドナルドの運命に、ハイランド人たちは恐怖するいっぽうでウィリアムとイングランドへの反感を強め、ジャコバイトがふたたび正統性を主張できる根拠を提供する結果となった。以後半世紀にわたって、スコットランドではジャコバイトの蜂起が度々起こった。ハイランド人を味方に引き入れるという当初の目論見は、短期的には成功といえなくもなかったが、長期的には裏目に出てしまった。


責任の所在

事件が有名になると、キャンベルと司法長官ステア伯およびイングランド王室の間で、責任の押し付け合いが始まった。イングランド政府は当初キャンベルの主導だったとした[9]。そのうえでステア伯はすぐに公職に戻されたが、命令書が発見されて風向きが変わった。さらに虐殺を指揮したジョン・キャンベルの子孫が、事件の詳細を執筆・出版し、そのなかでステア伯とウィリアムが黒幕であると指弾した。かくして議論は泥沼化したが、論争を続けても双方が傷つくだけであった。ヨーロッパ列強との戦争が続くうちに、次第に虐殺事件は忘れられていった。


村と氏族の「その後」

キャンベル氏族は、もともとスコットランド氏族内で「イングランド寄り」と評判がよくなかったが、虐殺に加担したことを機に氏族社会でさらなる孤立を深めていった。20世紀後半にいたるまで、グレンコーやマクドナルド氏族系のパブなどの多くで「No Hawkers or Campbells(行商とキャンベルお断り)」の札が掲げられ、キャンベルの子孫はひっそりとウイスキーを飲まなければならなかった。

虐殺を生き永らえた者たちはその後、王の許しを得てグレンコーに戻って村を復活させた。現在、グレンコー村では事件の歌が残っている[10]


歌詞

(chorus)O cruel is the snow
That sweeps Glencoe
And covers the grave o' Donald
And cruel was the foe
That raped Glencoe
And murderd the house of Macdonald


They came in a blizzard
We offered them heat
A roof o’er their heads
Dry shoes for their feet
We wined them and dined them
They ate of our meat
And they slept in the house of Macdonald

(chorus)


They came from Fort William
Wi’ murder in mind
The Campbells had orders
King william had signed
Put all to the sword
These words were underlined
And leave none alive called Macdonald

(chorus)


They came in the night
When the men were asleep
This band o’ Argyles
Through snow soft and deep
Like murdering foxes among helpless sheep
They slaughtered the house of Macdonald

(chorus)


Some died in their beds
At the hand of the foe
Some fled in the night
And were lost in the snow
Some lived to accuse him
That struck the first blow
But gone was the house of Macdonald

† おお、極寒の雪は
グレンコーの谷を浚い
ドナルドの墓を覆う
そして非情なる敵は
グレンコーの地を破壊し
マクドナルドを滅ぼした


彼らはブリザードを越えてやって来た
彼らに暖かい火を与え
風雪をしのぐ宿を与え
乾いた靴を与え
ワインと夕食を与えた
彼らは我々のもてなしを受け
マクドナルドの家で眠った

†(繰り返し)


彼らはフォート・ウィリアムからやって来た
殺意をその胸に秘めて
命じたのはキャンベル
署名したのはウィリアム
すべてを切り捨てよと
マクドナルドを生かしておくなと

†(繰り返し)


彼らは夜、やって来た
皆が眠りについたとき
アーガイル[11]の軍隊が雪の中から現れた
無防備な眠りに襲いかかる狐のように
ほしいままに殺戮を


†(繰り返し)


ある者は敵の手にかかり
ベッドに骸を横たえ
ある者は夜闇にまぎれ
雪の中に斃れた
ある者は生き残った
ウィリアムに一太刀報いるために
けれどもマクドナルドはもう戻らない


脚注

^ ハイランドはノース人ピクト人などから成り、ケルト系言語のスコットランド・ゲール語圏であった。それより南の低地地方(ローランド)は、英語と同じゲルマン系言語で、民族もアングロサクソン系が入り込んでいた。
^ ウィリアムはイングランド王位についた後も依然ネーデルラント総督の地位にあり、オランダを守る必要もあった。名誉革命によるウィリアムのイングランド王位継承は、ネーデルラント=イングランド同盟対フランスという構図を鮮明にした。
^ イングランド法においてはマグナ・カルタコモン・ローなどから、臣下が王に反対する権利を見出すことが比較的容易で、名誉革命を正当づけるために古来の慣習法が引きあいに使われた。
^ 革命前にはカトリック陰謀事件のような騒動も起きていた。
^ もともとの署名の地であったフォート・ウィリアムにグレンコーのマクドナルドが到着したとき、州知事のヒルは期限前に到着したことを証明する書簡を担当部署に送った。ヒルはマクドナルドを安堵させるよう取り計らったが、結局これは顧みられなかった。変更先のインヴァレリーは南に80kmほど離れたところであった。
^ 英語版より投稿者和訳。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki