ユリウス暦と実際の太陽年とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年間ものあいだ顧みられず、宗教的な問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し、新たにグレゴリオ暦を制定した後もローマ教皇による発令だったためか、その導入には各国で大きな隔たりがあった。
ヨーロッパ圏内であってもカトリックの国は比較的早く導入した一方で、そうでない国では導入までに少なくとも100年以上かかった。
特に正教会の地域である東欧ではより長い時間がかかった。コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認した。コンスタンディヌーポリ教会は1923年までグレゴリオ暦を採用せず[3]、今でもエルサレム総主教庁およびロシア正教会はユリウス暦を使用し、また全正教会が復活祭の算出にユリウス暦を使用する[4]。ただし、ロシアでも世俗の領域ではグレゴリオ暦を採用している。従ってユリウス暦12月25日の降誕祭は、ロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。
プロテスタント諸国については、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった理由のひとつに、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったのである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を元に祭日を決めることに問題があることはプロテスタントの宗教家もよく知っていた。このためグレゴリオ暦は非カトリック国にも徐々にだが浸透した。ドイツのプロテスタント諸国は日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良暦と呼ばれた。しかしケプラーはグレゴリオ暦の方がすぐれていることを知っていたため、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、周辺プロテスタント諸国もこれに追随した。
日本では1872年(明治5年)に、従来の太陽太陰暦を廃して翌1873年から太陽暦を採用することが布告された。この『明治5年太政官布告 ⇒第337号、改暦ノ布告』では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年(1872年)12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった(明治改暦・明治の改暦)。
この布告は年も押し詰まった明治5年の11月9日に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権を持つ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は例年、10月1日に翌年の暦の販売を始める。改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を受けることになった。一方、太陽暦改暦を唱えていた福澤諭吉は改暦決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に慶應義塾から刊行されたこの書は大いに売れて、6年後に松田道之に充てた福澤の書簡にはこの出来事を回想して忽ち10万部が売れたと記している。
これほど急な新暦導入は当時の政府の財政状況が逼迫していたことによる。大隈重信の回顧録(『大隈伯昔日譚』)によれば、すなわち旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13ヶ月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12ヶ月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11ヶ月分しか給料を支給せずにすませられる。
しかし、施行まで1ヶ月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、この布告には置閏法に不備があった。すなわちグレゴリオ暦の重要な要素である「西暦の年数が100で割り切れ、400で割り切れない年を閏年としない」旨の規定が欠落していたのである。このままでは解釈次第では導入された新しい太陽暦はグレゴリオ暦ではなく、「ユリウス暦と同じ閏年の置き方を採用した日本独自の暦[5]」ともされてしまう。また、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」の文面もおかしく、上記に述べたようにグレゴリオ暦で1日の誤差が蓄積されるには3,300年しか要さない(これは「遠西観象図説」の誤りと考えられる)。
そこで1898年(明治31年)5月11日に改めて(明治31年勅令 ⇒第90号『閏年ニ關スル件』)を出して、グレゴリオ暦に合わせた閏年に関する調整を定めた。閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)神武天皇?位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
この勅令では皇紀(神武天皇即位紀元)を用いて閏年と平年とを求めているが、西暦を用いたグレゴリオ暦の採用と大差はない。勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年(西暦1900年、明治33年)が1年半後に迫っていた。
グレゴリオ暦導入の経緯
明治5年10月1日 例年通り、弘暦者(頒暦商社)により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。
明治5年11月9日 太政官布告第337号が発布、突如として明治5年は12月2日で終了すると通達される。
明治5年11月27日 太政官布達により「当十二月ノ分ハ、朔日・二日・別段給与ヲ賜ハラズ」と、12月分の給与未支給が通告される。
明治5年12月2日 天保暦が廃止。
明治5年12月3日(旧暦)・明治6年1月1日(新暦) 太陽暦への改暦(明治改暦)。
明治6年1月12日 頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。
明治8年1月12日 頒暦商社の暦販売権を明治15年まで延長する。
明治16年 本暦と略本暦が伊勢神宮より頒布される。
明治31年5月11日 明治5年の改暦における置閏法の問題(明治33年がグレゴリオ暦と異なり閏年となる)を修正した勅令 ⇒第90号が発布される。