クロマティ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「クロマティ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「クロマティ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ウォーレン・クロマティ
Warren Cromartieモントリオール・エクスポズ在籍時
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地フロリダ州マイアミビーチ
生年月日 (1953-09-29) 1953年9月29日(70歳)
身長
体重183 cm
90 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手一塁手
プロ入り1973年 6月二次MLBドラフト1巡目
初出場MLB / 1974年9月6日
NPB / 1984年4月6日
最終出場MLB / 1991年9月15日
NPB / 1990年10月24日(1990年日本シリーズ)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


マイアミ・ジャクソン高等学校(英語版)

マイアミ・デイド大学(英語版)

モントリオール・エクスポズ (1974, 1976 - 1983)

読売ジャイアンツ (1984 - 1990)

カンザスシティ・ロイヤルズ (1991)

監督歴


ジャパン・サムライ・ベアーズ (2005)

国際大会
代表チーム アメリカ合衆国
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ウォーレン・クロマティ
YouTube
チャンネル

クロマティチャンネル / Cromartie Channel

活動期間2020年5月27日 - 2021年10月13日
ジャンル野球
登録者数3.79万人
総再生回数4,055,588回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年10月14日時点。
テンプレートを表示

ウォーレン・リビングストン・クロマティ(Warren Livingston Cromartie、1953年9月29日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州マイアミビーチ出身の元プロ野球選手外野手一塁手)、YouTuber。左投左打。愛称は"クロウ"(Cro)。
経歴
プロ入り前

MLBドラフトでは高校時代から数えて計4度指名されているが、いずれもプロ入りには至らなかった。マイアミ・デイド大学(英語版)在学時の1972年には第1回日米大学野球選手権大会に出場した[1]
プロ入りとエクスポズ時代

1973年6月の二次ドラフト1巡目(全体5位)でモントリオール・エクスポズから指名され、プロ入り。メジャー3年目の1977年頃からレギュラーに定着した。
読売ジャイアンツ時代

1983年のシーズンオフ時にFAとなって同年12月29日読売ジャイアンツへ移籍。

1984年に35本塁打をマークするなど、日本でもレギュラーの一人としてチームを牽引した。

1986年には打率.363を記録したが、この年はかつてエクスポズでのチームメイトであった、阪神のランディ・バースが日本プロ野球記録である打率.389を記録したため、首位打者を獲得できなかった。シーズン打率が.360以上を記録しながらも、首位打者になれなかったのは、現在までクロマティただ1人である。

1988年、シーズン開始前にこの年限りでの引退を宣言する[2]ヤクルトスワローズとの開幕戦で巨人の選手では東京ドーム第1号となるホームランを打つ。しばらくは不振の原辰徳に代わり4番を任されるなど好調を維持していたが、6月13日阪神タイガース戦で久保康生から指に死球を受けて骨折してしまったことで、残りのシーズンを棒に振った。チームの最終戦の10月4日横浜大洋ホエールズ戦には、尊敬する王貞治監督のラストゲームを見届ける為にベンチ入りしていたが、試合には出場しなかった。

1989年、再度この年限りでの引退を宣言し、5月の外国人特派員協会でも引退の意向に変わりがないと述べる[3]。他方で、成績の方は開幕から長打を捨ててヒットを量産し[注 1]、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制であったため規定打席数は試合数×3.1の403打席数であった)に到達した時点で打率4割を超えていた。最終的な打率は.378まで下がり[4]、4割打者誕生はならなかったが、首位打者を獲得した。96試合まで4割を維持したのは広瀬叔功の89試合を抜くプロ野球最長記録であり、.378は巨人の球団歴代最高打率である。首位打者に加え、.449で最高出塁率の二冠のタイトルを獲得。20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞した。チームが独走状態だったこともあり、監督が休養を提案したが、出場することを選んだ結果として、終盤は打率の低下が著しくなり4割打者の誕生は幻となった。シーズン終了後に引退を撤回する[3]

シーズン打率.360以上を2回(1986年、1989年)記録している。これは他にイチロー(1994年、2000年)と落合博満(1985年、1986年)しか達成していない記録である。

1990年は開幕から低調で7月まで打率.252 5本塁打という成績ながらチームが史上最速ペースで優勝を飾るなど首位を独走しており、加えてクロマティのファン人気が高いこともあってオールスターにファン投票で選出された。8月以降は打率.390(136打数53安打)9本塁打で復調の兆しが見えたがシーズン終了後の1991年1月16日に退団が発表された。直後に「さらばサムライ野球」を出版する。中畑清王貞治監督のことを陰で「ワン公」と呼んでいたとか、篠塚和典は苦手投手の先発が予想されると仮病で休むなど、暴露本の様相を呈していたため話題となった。

球団助っ人9打数連続安打の記録を持つ[5]
89年シーズンについて

1989年、5月18日の時点で打率.470、6月25日の58試合目で.396となったが、8月9日に再び4割超え、8月20日まで打率.401で(96試合目までの打率4割台は64年の南海・広瀬叔功の89試合を抜く日本記録)、クロマティはこの時点ですでにシーズン規定打席をクリアし、打率も4割を達成していたものの、チームは優勝争いの真っ只中で主力選手であったクロマティは休まずに出場を続けた[6][7]。「規定打席に到達した時点で4割を超えていたわけだから、みんなに『もう、試合に出ないほうがいい』と言われたことはよく覚えています。もしこれが残り10試合だったら、僕もそうしていたと思うけど、シーズンは続いていましたからね」と述べている[6][8]
ロイヤルズ時代

1991年3月1日カンザスシティ・ロイヤルズのキャンプに参加しメジャー復帰するも、8月20日に引退が報じられた。
ロイヤルズ退団後


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:93 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef