ヴァルトハイムは、ウィーン近郊のザンクト・アンドレー=ヴェルデルン ⇒St. Andr?-W?rdernで生まれた。第二次世界大戦前にヒトラーユーゲントを経てナチス突撃隊の将校を務める。
ウィーン大学で法学博士号取得後、1945年にオーストリア外務省に勤務。1948年からパリ駐在のオーストリア公使を務めたのち、1951年からウィーンの外務省に戻り、1956年から1960年までのカナダ駐在大使を経て、1964年には国連のオーストリア代表に就任した。
その後一旦国連を離れ、1968年からオーストリア国民党に所属し、連邦外務大臣を務めた。1970年に国連に戻ったのち、1971年にはオーストリア大統領選挙に立候補するも落選。
1972年、ウ・タントを継いで第4代国際連合事務総長となり、1976年には再選された。1981年からの三期目にも挑戦したが、常任理事国である中華人民共和国の拒否権によって落選し、ハビエル・ペレス・デ・クエヤルが彼の後任となった。
上記の通りヴァルトハイムは1971年の大統領選挙に落選したが、1986年6月8日の二度目の挑戦では、第二次世界大戦前にヒトラーユーゲントを経てナチス突撃隊の将校となっていたという事実が判明し、アメリカ、イギリス、フランスなどは彼が大統領となる事に反対を表明した。しかし、オーストリア国民はこれを内政干渉と反発、結果として彼は大統領に当選した。
調査によって彼は大戦中の1943年にユーゴスラビアで残虐行為を働いた部隊において通訳を務めていたことが判明した一方、戦争犯罪には無関係であったとされたが、1992年の大統領選には立候補せず、再選を断念した。
大統領職にあるにもかかわらず、その経歴から彼は多くの国で「ペルソナ・ノン・グラータ」とされ、6年間ほとんど外国への公式訪問を行わなかった(日本へは1990年の即位の礼で大統領夫妻として来日)。アメリカ合衆国は元ナチ党員及び関係者の入国を拒否しているため、1987年にはアメリカの「要注意リスト」に挙げられた。
先代:
ウ・タント国連事務総長
1972年 - 1981年次代:
ハビエル・ペレス・デ・クエヤル
先代:
ルドルフ・キルヒシュレーガー連邦大統領 (オーストリア)
1986年 - 1992年次代:
トーマス・クレスティル
カテゴリ: 国際連合事務総長 | オーストリアの政治家 | チェコ系オーストリア人 | 1918年生 | 2007年没
更新日時:2008年7月18日(金)10:51
取得日時:2008/07/20 19:21