ウスマーン版のクルアーンは、全てで114の章(スーラ)からなり、スーラは節(アーヤ)に分かれている。各章はムハンマドに下されたひとつひとつの啓示であるが、長短は非常に大きなばらつきがあり、もっとも短い第108章「豊潤」には3節しかなく、もっとも長い第2章「牝牛」は286節ある。また、章の分け方とは別に、読誦するときに一度に読む目安となる分量ごとに全体を30等に分割したジュズウという巻に分かれており、1日に1巻づつ読誦すると1ヶ月で全てを読誦できるようになっている。
章の構成は、第1章「開扉」を例外として、概して長い章から短い章へ向かう方針で編纂されており、時系列はばらばら。しかし、後代のウラマー(イスラームの学者の総称)らの研究によりおおよその推測がなされるようになった。そこでコーランの章を時期別に大きく三つに区分することができる。第1期はムハンマドが初めてアラーの啓示を受けてからの初期段階、第2期は大衆への伝道を進め、メッカにおける迫害が厳しくなった時期、第3段階はヒジュラ(ムハンマドがメッカの迫害を逃れてメディナへ遷都したこと)以降の啓示である。
それぞれの特色を述べると、第1期は啓示が押し並べて短い。この時期はムハンマド自身がイスラームの境地を見出そうとしているときであり、信奉者もごく少数の身内が主であった。初めてアラーの言葉を聞いた当初のものとされるコーランの記述を見ると、ムハンマドのアラーの言葉へ対する畏怖の念が強く出ているのが興味深い。啓示も神の創造と世界の終末を厳かに語り、アラーの権威付けを行っている。そして詩的で力強い。
第2期の特徴としては、約80章もの啓示が下り、分量が多いことと、内容が説話的であるということである。ただし、旧約聖書や新約聖書に比べると、コーランはストーリー性を重視していない嫌いがあり、かなり端折ったりしている。このころになると一般大衆の信奉者が増え、危機感を持ったクライシュ族の迫害が始まる。ここで改めてイスラームの正当性を主張し、ムスリムの結束を呼びかけているのである。
第3期の特徴としては、一章あたりの啓示が長いこと。内容としては法制的で、イスラーム社会の規律についてしきりに述べている。クライシュ族の迫害を逃れ、メディナに逃れると、クライシュ族や現地のユダヤ教徒との対抗の必要上ウンマ (イスラム)(イスラームの共同体)がここで形成される。そこで信徒の生活に深く介入し、きわめて政治的な啓示が述べられているのである。
クルアーンは、アラブ人のムハンマドを通じてアラブ人の共同体に対して与えられた啓典であったので、布教の対象も当初はアラビア語を理解できるアラビア半島の住民に限られており、翻訳をめぐる問題も発生しなかった。
しかしクルアーンは単なるアラブ人に対する啓典ではなく全人類に与えられた最高で最後の啓典と位置付けられていて、それを根幹とするイスラーム教の共同体も、アラブ人に留まらず全人類が内包されるべきものと位置付けられていたので、やがてアラビア語を解さない人々に対しても布教が行われるようになる。のちにイスラム教が東南アジアなどに布教されるようになる段階に至るとクルアーンの翻訳に対して積極的な意見を持つ者もあらわれた。しかしウラマーたちの間では「クルアーンがムハンマドに対してアラビア語で伝えられた」ことが重視され、翻訳されたものは神の言葉そのものであるクルアーンを正しく伝えられないとする解釈がなされるようになった。そのため、アラビア語で書かれたもののみが「クルアーン」であるとみなされるようになり、現在に至っている。
従って、クルアーンの翻訳は原則として禁じられる。実際には、布教やアラビア語を母語としないムスリムの理解の助けとするために、クルアーンを翻訳したものは編纂され出版されているが、これはあくまで注釈と位置付けられる。
かつてトルコ共和国では政府の脱イスラム化の改革の一環として、クルアーンのトルコ語化がはかられるようとしたが、注釈用として以上の用途にはついに広まらなかった。
日本語訳は古くは大川周明によるものがあるが、現在では井筒俊彦による翻訳、藤本勝次らによる翻訳、ムスリムである三田了一による翻訳などがある。
クルアーン解釈学(タフスィール学)ナスフ体によるクルアーンの章句。アラビア語各単語とそれに対応する朱字のナスタアリーク体によるペルシア語の訳文。タフスィールの一種。中国語によるクルアーンの訳文。
それでは、アラビア語で書かれたクルアーンの章句が他の言語に翻訳された事が全く無かったかというと、勿論そうではない。
預言者ムハンマドの死後、イスラームの拡大・拡散に伴い、それまで自明とされて来たアラビア語で書かれたクルアーンの意味や啓示された章句の背景についても、新たな世代やアラビア半島以外の非アラブの異邦人たち、さらに新たにムスリムになった人々にも説明し、各々の意味の解釈を提示する必要が生じ始めた。これらクルアーンに関する研究は、最初期にはハディースの集成によって啓示の経緯や意味内容をまとめることにはじまり、やがてアラビア語の文法学的解釈、神学的解釈などが付け加わり、クルアーンの解釈について学問的に体系化されていった。これらクルアーンの解釈に関する学問をタフスィール学 ??? ??????? ‘ilm al-tafs?r と称している。イスラームの社会において「クルアーンの章句をアラビア語以外の言語で説明する」伝統は実際に存在したが、これらはこのタフスィール学の範疇として認識されてきた。
預言者ムハンマドの教友には、アラブ人以外の人々も何人か確認されている。その代表的な人物にイスファハーン近郊出身と伝えられるペルシア人ムスリムの祖、サルマーン・ファールスィー Salm?n al-F?rs? がいる。伝承によれば、ムハンマドの側近として活躍していたサルマーンは、ある時イエメン在住のペルシア人ムスリムたちからクルアーン第1章(開扉章)の翻訳を求められた折に、「慈悲深く慈愛遍くアッラーフの御名によりて(bi-smi All?hi al-Ra?m?ni al-Ra??mi )……」というバスマラの部分を、ペルシア語で「(bi(によって)−n?m(名)-i yazd?n(神)-i bakhsh?yanda(憐れみ深い)……」という風に逐語的に翻訳したと言われており、アラビア語を解さない者のために当初からこのような処置が行われていたようである。
しかしながら、ムスリム側の認識に立った場合、上記のようにクルアーンはそもそも朗誦されることを前提としており(クルアーンの読み方については「クルアーン朗誦学」も発達した)、意味と朗誦の旋律を含めて統語論的体系の異なる他の言語に全てを完全に翻訳することは不可能である。そのため、クルアーンについて外国語訳を行う場合、飽くまでも意味を近似的に説明するだけしか出来ないことから、「翻訳」( ????? tarjama)の名称は避け、「各々の言語によるタフスィール」あるいは「タフスィール的翻訳( ????? ??????? tarjama tafs?r?ya)」と呼びうるものになる。一般的に「クルアーンの英訳」「クルアーンの日本語訳」と呼ばれる物は後者の「タフスィール的翻訳」に分類される。
クルアーン解釈書・注釈書は単にタフスィール ????? Tafs?r と呼ばれ、クルアーンの個々の章句や節について、諸々のハディースや学説に基づいた注釈、解釈などの解説が附される。アッバース朝時代に入って、アラビア語によって様々なハディース集成書やタフスィールが編纂されたが、アラビア語で書かれたタフスィール書がペルシア語などで翻訳されたりもした。「タフスィールそのものの翻訳」については、例えば10世紀後半、サーマーン朝第8代君主マンスール・ブン・ヌーフ(マンスール1世)の要請によって中央アジアのウラマーたちが行った、タバリーの大タフスィール、『解説集成』( ???? ?????? J?mi‘ al-Bay?n)のペルシア語訳が存在する。また、ペルシア語によるタフスィールとしては、12世紀半ばにジャマールッディーン・アブールフトゥーフ・アル=フサイン・アッ=ラーズィーによって著された『愛の歓喜と心の魂』( Raw? al-Jin?n va R?? al-Jan?n )がある。これは現在の刊本でも全13巻に渡る大著であり、ペルシア語タフスィールとしては最も優れたものであると評されている。
『愛の歓喜』の場合、まず、章句中の各々のアラビア語文の節の下にペルシア語による訳文が添えられ、その後に各々の単語や文章などについてペルシア語による解説が詳しく述べられる。サーマーン朝のマンスール1世が編纂させたような「大学者が著したアラビア語によるタフスィール」の翻訳以外にも、ラーズィーの『愛の歓喜』のような「各々の言語によるタフスィール」の例も様々にあり、ペルシア語以外にもオスマン語やチャガタイ語、マレー語など、その土地その土地の言語によるタフスィール書も史上多数著された。