古代のギリシャはアテナイ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っており、言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体であった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀にペルシア帝国が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀にはギリシャ北部に興ったマケドニア王国の支配を受け、紀元前2世紀には共和政ローマの属州とされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。
但し、現在のギリシャ人は後世に主にバルカン半島北部から南下してきた人々との混血が進んでいるため、現在と当時ではその人種的な構成等は異なっていると言われることもある。しかし、民族の移動の激しいヨーロッパにおいて古代から純粋な血統を保持している民族などというものはなく、ギリシャ人もまたその例に漏れないだけである。
詳細は東ローマ帝国を参照
この時代のギリシャについて、日本では「東ローマ帝国の支配」と表現する書籍が多いが、7世紀以降の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシャ人が中心となっていったため、そうした表現はじつは妥当性を欠いている。現代ギリシャにおいても、東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。 (ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという)この時代のギリシャ人はヨーロッパ側の農村や地方都市に住んでいる人を指し、コンスタンティノポリスに住む住民はローマ人と称した。
なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる。
1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領して東ローマ帝国が崩壊すると、現在のギリシャの地には東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国やブルガリア帝国、セルビア王国、アテネ公国などの十字軍に参加した西欧人諸侯国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。
1261年に東ローマ帝国は復活したが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降はイスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていった。1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。以後400年近くオスマン帝国の統治が続いた。
オデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、1821年オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、1829年、アドリアノープル条約によってギリシャの独立が承認された。翌1830年、バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王に据えギリシャ王国として独立し、東ローマ帝国滅亡以来約380年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。
1897年に希土戦争、1912年から1913年にバルカン戦争、1919年〜1922年に再度希土戦争が勃発。1924年にクーデターにより共和制がしかれるが、1935年には王政が復活した。第二次世界大戦ではドイツおよびイタリア、ブルガリアの侵攻にあい王室と政府はイギリスに亡命し、ギリシャ本土は独伊勃3国によって1945年まで分割占領状態に置かれた。
大戦中には占領軍に対するレジスタンス活動が行われたが、活動を主導した共産主義左派とイギリスの亡命政府に支援された右派の対立が激しく、第2次世界大戦が終結し亡命政府が帰還した後も対立は続いた。 1946年にはソビエトと隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が「共産主義者民主主義軍」というゲリラ部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカが保守右派政府の全面的な支援に乗り出したことと、1948年以降ユーゴスラビアとソビエトが対立し、ギリシャの共産勢力はソビエトを支持したために国外からの支援の大半を占めるユーゴスラビアからの援助が失われ、1949年まで続いた内戦は共産主義勢力の敗北によって終結した。