正式名称はギリシャ語でΕλληνικ? Δημοκρατ?α(ラテン文字転写はEllinik? Dhimokrat?a、読みは「エリニキ・ジモクラティア」)。通称は、Ελλ??(ラテン文字転写:Ell?s、読みはエラス、古典語ではヘラス(Hell?s))またはΕλλ?δα(ラテン文字転写:Ell?da、読みはエラザ)。
公式の英語表記はHellenic Republicであるが、通称はGreeceが用いられる。
日本語による表記はギリシャ共和国。通称ギリシャ。歴史・地理・人文系ではギリシアという表記もされるが、国会の制定法や外務省、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される。漢字では「ヘラス」の音訳として「希臘」と表記され「希」と略される(例えば、ギリシャ語を希語と書くなど)。ギリシャ、ギリシアという名称は、ラテン語名のGraecia(グラエキア)がポルトガル語でGr?cia(グレシア)となり、これが宣教師によって日本にもたらされ変容したとされる。
また、中東の諸言語での呼称「??????? ユーナーン」(アラビア語)、????イェヴァン(ヘブライ語)、「Yunanistan ユナニスタン」(トルコ語)などは、イオニアに由来する。
詳細はギリシャの歴史を参照
古代のギリシャはアテナイ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っており、言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体であった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀にペルシア帝国が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀にはギリシャ北部に興ったマケドニア王国の支配を受け、紀元前2世紀には共和政ローマの属州とされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。
但し、現在のギリシャ人は後世に主にバルカン半島北部から南下してきた人々との混血が進んでいるため、現在と当時ではその人種的な構成等は異なっていると言われることもある。しかし、民族の移動の激しいヨーロッパにおいて古代から純粋な血統を保持している民族などというものはなく、ギリシャ人もまたその例に漏れないだけである。
詳細は東ローマ帝国を参照
この時代のギリシャについて、日本では「東ローマ帝国の支配」と表現する書籍が多いが、7世紀以降の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシャ人が中心となっていったため、そうした表現はじつは妥当性を欠いている。現代ギリシャにおいても、東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。 (ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという)この時代のギリシャ人はヨーロッパ側の農村や地方都市に住んでいる人を指し、コンスタンティノポリスに住む住民はローマ人と称した。
なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる。
1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領して東ローマ帝国が崩壊すると、現在のギリシャの地には東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国やブルガリア帝国、セルビア王国、アテネ公国などの十字軍に参加した西欧人諸侯国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。
1261年に東ローマ帝国は復活したが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降はイスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていった。1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。以後400年近くオスマン帝国の統治が続いた。
オデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、1821年オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、1829年、アドリアノープル条約によってギリシャの独立が承認された。