キリスト教
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日本とキリスト教


歴史

詳細は日本キリスト教史を参照フランシスコ・ザビエル

日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説がある[58][59][60]

史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀カトリック教会の司祭、イエズス会フランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「キリシタン」、キリスト教宣教師は「バテレン」と呼ばれた。宣教師に対して好意的だった織田信長の政策を踏襲した豊臣秀吉もキリスト教を保護した。1587年にバテレン追放令を発布した後も、キリスト教は事実上黙認されていた[61]徳川家康が権力の座についた当初もキリスト教に対しては寛容な態度がとられていたが、1614年に禁教令が出され、以後キリスト教徒の探索と迫害が行われた。激しい迫害によってキリスト教は根絶させられたかのように見えたが、長崎などで一部の信徒が地下にもぐり、潜伏キリシタンとして信仰を守り続けた。

禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼暦を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。

隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、水責め・火責めなどの拷問、3400名に及ぶ流刑などが行われた[62]。また他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。欧米諸国からの強い抗議を受けて、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは1873年のことである。

キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリックプロテスタントロシア正教会とも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。

カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッションスクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。

戦前を通じ、キリスト教に対して社会の環境は厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも難しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。プロテスタント諸教派は政府の誘導下に合同教会「日本基督教団」を設立した。日本基督教団は富田満統理を指導者として神社参拝、宮城遥拝を率先して行ったが、それを拒んだ聖職者や信徒のなかには、官憲の追及を受け、逮捕・投獄されるものもおり、取調べによる死者も出ている。


現代日本のキリスト教

2004年現在日本の総人口の約1%がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約50万人、プロテスタント諸派が計約50万人、プロテスタントで最も信徒数の多い日本基督教団が約10万人である。正教会(日本ハリストス正教会)は約1万人。尚、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人(ものみの塔)が公称約22万人とされている。通常この2派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含めない場合もある。隣国韓国はクリスチャンが急増しているが、近年の日本は横ばいが続いている。


カトリック

太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争については沈黙した。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力という点での批判がそれぞれある。

中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。

1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。

カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki