太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争については沈黙した。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力という点での批判がそれぞれある。
中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。
1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。
カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。
プロテスタント(戦時中はその殆どが日本基督教団に合同)もカトリックと同様の立場を取り神社参拝を行ったが、殆ど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれた。そのため、日本基督教団では会堂に神棚を設置し、礼拝前に宮城遥拝を行うなどして保身を図った。また日本基督教団は政府の政策に協力し、アジアのクリスチャンへの弾圧に加担した。しかし、偶像を否定する者や再臨信仰を持つ教会では牧師連行などの弾圧を受けた[63][64]。
殊に、四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)という信仰のスローガンで知られるホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の3派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、1942年11月、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、7名の牧師が殉教した。
救世軍は1940年7月、イギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また、「皇軍以外に『軍』を名乗る組織があるのはけしからん」という理由で敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制された。セブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。
また神社参拝を偶像崇拝として拒否した美濃ミッションら少数のキリスト者は激しい迫害にあった。
戦後は合同教会としての日本基督教団とともに、各教派の教団も再建。救世軍など活動を禁止されていた教派も活動を再開した。連絡組織としてエキュメニカル派では日本キリスト教協議会、カトリックなども包含する日本キリスト教連合会が、福音派では日本福音同盟が結成されている。
政治運動ではなく、さまざまな手段を用いた布教を主たる活動とする教会の台頭も著しい。キリスト者自らがイエス・キリストについての『聖書』の言葉を聞き、イエス・キリストが自らの救い主であることを受け入れ、人生観、人生がいかに変化したかを語る証しによって、キリスト者になる者が一部の教会では増えている。近年、海外のキリスト教の助力により、パワーフォーリビング(2007年に配布開始)やラブソナタなどの大規模な布教が行われている[65]。
詳細は日本ハリストス正教会を参照
発足間もない時代、日本の正教会はニコライ・カサートキンら神品を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれていた。19世紀半ばに函館から始まった日本正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂:ニコライ堂も建設された。しかし1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、日本の正教会は苦しい立場におかれた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルギイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた[67]。府主教座のあるニコライ堂(東京都千代田区)。現在の姿は関東大震災による上部ドームと鐘楼の崩壊後、1929年に再建されたもの
また、関東大震災で東京復活大聖堂(ニコライ堂)も含む東京市内のほとんどの教会が破壊された。資金難の困難な情勢の中でニコライ堂は再建されたが、他の東京市内の教会の殆どは再建されず、東京市内の教会は神田の東京復活大聖堂の教会に再編された[68]。
第二次世界大戦後日ソの外交関係が途絶しアメリカを中心とする連合軍が日本に入ると、日本の正教会はアメリカ合衆国に所在する正教会(アメリカ正教会の前身)の管轄下に一時的におかれた。アメリカから高位聖職者が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジーミル神学校に多数の若い神学生が留学した。その後、1970年に日本教会はモスクワ総主教庁の庇護下で聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄を継続すべきとするグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。紆余曲折があったが、現在では日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好である。