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エキュメニズムへの取り組み

プロテスタントは、1910年にエディンバラで世界キリスト教会議を開催し、カトリックと正教会の代表に加えて、非キリスト教の諸宗教の代表も招き、教会の対話と一致を協議した。その結果、1948年には世界教会協議会(WCC)が誕生し、エキュメニカル運動教会一致運動)が推進された[56]。プロテスタント諸教会は洗礼聖餐職制叙階)において一致するために「リマ文書」を作成し、それを用いて諸教会の合同礼拝を行っている。また、各国でプロテスタント諸教派による合同教会(United Church)が誕生している(ただし、その要因は主流派諸教会の信徒数減少による)。

カトリックでは1960年代の第2バチカン公会議において、エキュメニズムへの取り組みを本格化させた。プロテスタント諸派とは相互聖餐(フル・コミュニオン)の関係樹立を目指して、教派別に神学的作業が進められている。1990年代には、ルーテル派とカトリックの間において、16世紀の宗教改革の最大の争点となった「信仰義認」の教義について、現在の両教会の見解の間には本質的相違が存在しないことが確認されているが、全教会規模での相互聖餐には至っていない。また、聖公会とカトリックの間にも、相互倍餐の関係を模索する動きがあるが、秘跡論の違いに加え、カトリックが同性愛者を否定しているのに対し、聖公会が同性愛者および、女性を司祭や主教司教)に叙階していることが、両教会の完全な合同に対する越えがたい障害となっている。

また、近世以降カトリックは、ローマの首位権を認めることを条件に、東方典礼という形で東方教会の一部を取り込んできた(帰一教会)。しかし20世紀において、将来の一致を目標としつつ、現状においては東方教会のそれぞれの教派を独自性をもつ教会として扱うにいたった。現在のカトリック教会は、すべての東方教会の信徒に、やむをえない場合という留保つきではあるが、聖体拝領を認めている[57]。ただし、こうしたカトリックのいうエキュメニズムはたんに他教派のローマ帰一を最終的な目標とするもの(カトリック・エキュメニズム)であり、相互の教理理解に必ずしも基づかないとの警戒も他教派には存在する。

東方諸教会と、かつての正統教会の後裔であるカトリックと正教会、またプロテスタント教会との間の対話も活発化している。正教会非カルケドン派教会は第2次大戦後以降、おもに中東地区で対話をすすめ、20世紀末には正教会シリア正教会が教義についての合意を正式に文書で確認しあうにいたった。その文書では、キリスト論などの教義の違いは神学的相違というよりはむしろその表現の相違であり、根底において教義を共有しあっていることを認めた。ただし教会としての全面的な一致にはいたっていないため、教会の方針としてはフル・コミュニオンには至っていない。

非カルケドン派教会のひとつ、エジプトのコプト正教会は世界教会評議会での熱心な活動で知られ、ことにアフリカ地区での他教会との交流に力をいれている。これは他の教会での礼拝への陪席などを含んでいる。


日本とキリスト教


歴史

詳細は日本キリスト教史を参照フランシスコ・ザビエル

日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説がある[58][59][60]

史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀カトリック教会の司祭、イエズス会フランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「キリシタン」、キリスト教宣教師は「バテレン」と呼ばれた。宣教師に対して好意的だった織田信長の政策を踏襲した豊臣秀吉もキリスト教を保護した。1587年にバテレン追放令を発布した後も、キリスト教は事実上黙認されていた[61]徳川家康が権力の座についた当初もキリスト教に対しては寛容な態度がとられていたが、1614年に禁教令が出され、以後キリスト教徒の探索と迫害が行われた。激しい迫害によってキリスト教は根絶させられたかのように見えたが、長崎などで一部の信徒が地下にもぐり、潜伏キリシタンとして信仰を守り続けた。

禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼暦を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。

隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、水責め・火責めなどの拷問、3400名に及ぶ流刑などが行われた[62]。また他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。欧米諸国からの強い抗議を受けて、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは1873年のことである。

キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリックプロテスタントロシア正教会とも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。

カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッションスクール)や病院をたて、活動を行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen