キリスト教の歴史
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古代異教由来の事物の取り込みと一神教の変容

使徒パウロの活動拠点のアンティオキア教会では異邦人への柔軟な文化適合を重視していた。その影響で、その後のローマ帝国と辺境各地への布教でも、現地の異教の風習や祭礼がキリスト教的再解釈されて積極的に利用された。有名な例では、ローマ教会ではじめられたミトラ教由来の冬至の祭礼クリスマスがある。

さらに多神教世界に布教する際、キリスト教は他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が聖母マリアに捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例としてミネルヴァイシスなどがある。時には異教の神像をそのまま流用することもあった。その例として、イシスとオシリスの像をマリアとイエスの聖母子像へ転用したことなどが指摘される。

禁令解除以後は弾圧の際の殉教者を積極的に称揚することが行われ、諸聖人の記念日や聖像イコン)が使用されるようになった。

異教の多神教的世界観に慣れた古代人にはキリスト教の一神教的世界観を理解することが困難であるが、これらの一種多神教的な事物を内部に取り込むことは彼らへの布教を推進させる力となった。

また東ローマ帝国において、キリスト教の布教は帝国に親和的な環境を作ることにつながるため、東ローマ帝国皇帝は積極的に他民族への布教を後援した。


東方諸教会の成立

公会議による教義の確認は正統教義の確立を促したが、その一方で異端とされた教説の保持者が教会から分離することにもつながった。

異端とされた説には、消えていったものも多かったが、正統派の勢力が及んでいない地域で活路を見出すものや、自派の勢力の強いところで独自の発展を遂げたものもある。アリウス派は、最終的には消滅したものの、一時はゲルマニアを中心に布教し、それなりの期間にわたり勢力を保った。

現在残っているそのような教派を東方諸教会という。431年エフェソス公会議で異端宣告されたネストリウス派はペルシアを経て中央アジアへと勢力を広げた。更には代の中国にも三夷教の一つ景教として伝来した。景教は大秦寺が建立されるなど、唐代では栄えており、仏教浄土信仰等に与えた影響も指摘されている。現代でも、イラクのアッシリア教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)に継承されている。また451年カルケドン公会議で異端宣告されたキリスト単性論は、シリア・エジプト・アルメニアでは多数派として残り、イスラム教化する以前の東方では、数において他を圧していた。現在も単性論教会はシリア・エジプト・アルメニアに相当数の信者を持っており、またカトリックや正教会とも一定の交流を保っている。単性論教会とされる教派には、エジプトのコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正統教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)や、元小アジア(現在はコーカサス地方)のアルメニア使徒教会などがある。但し、これらのいわゆる単性論教会は自らの教説を単性論と看做される事を拒否しており、特に正教会とこれらの教会の和解が急速に進展している。より中立的な呼び名としては非カルケドン派がある。


中世

ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国領域内と西ローマ帝国領域内で、キリスト教はそれぞれ違った展開をみせる。この相違は政治的なものにとどまらず、両地域がそれぞれギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、元来異なる文化圏に属したことに由来すると考えられよう。やがてコンスタンティノポリス総主教庁ローマ教皇庁は決定的に対立することとなり、1054年正教会ローマ・カトリック教会に分裂する。一方、古代末期に成立した東方諸教会は、イスラム教勢力の拡張とともに、シリア・パレスチナ・エジプトでの勢力を失い、この地方でのキリスト教は少数派となってゆく。


教会組織の発達

東ローマ帝国において宗教上の最高決定権は皇帝の手に握られるようになったとされ、これは『皇帝教皇主義』であると解釈されてきたが、事実はそう単純ではない。確かに後代の西方教会の神聖ローマ皇帝よりも教会に対して東ローマ皇帝が強い影響力を発揮し得たのは事実であるが、法的には皇帝と教会の立場は同格であり、教義は第2ニカイア公会議までの公会議を尊重することが皇帝と教会に求められ、教義に手を触れる事は皇帝と言えども許されなかった(詳細は「皇帝教皇主義」を参照)。

東西教会が教理上の問題で分裂したのちは、首都コンスタンティノポリスの総主教は「全地総主教」としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。

西方ではフランク王国ピピン3世による土地の寄進以降、ローマ教皇庁が北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。また11世紀グレゴリウス7世など一連の有能な教皇たちが現れ、弛緩していた教会の規律を正し、世俗領主たちに握られていた聖職叙任権を取り戻していくことで、カトリック教会の影響力を宗教面のみならず、世俗政治の世界においても強めることになった。王権を超える権威として西欧に影響力を強めるカトリック教会と、聖職叙任権や教会財産の問題をめぐって各地の権力者たちとの対立が起こるようになった。これが叙任権闘争である。


修道院の誕生と発達

修道制度の歴史は古代にまでさかのぼる。古代には洞窟や砂漠で1人修行し、隠者の生活を送るキリスト教徒たちがいたとされ、伝承では聖アントニウスがその始祖であるという。このような人々は独居し、他人と最低限の接触しか持たなかった。しかし、完全に一人で生きていくことには多くの困難が伴ったため、このような修道士たちが集団で暮らす制度が生まれた。これが修道制度の起源である。

ローマ帝国による迫害が終わり、信仰の自由が保障されると、キリスト教徒として、より禁欲的な生活を求めた人々もこの砂漠や人里はなれたところで求道的な生活を行うという運動に加わった。このような生活スタイルはやがてアイルランドにも伝わり、同地で盛んになった。アイルランドの修道者たちはイングランドやヨーロッパ本土に渡って、キリスト教の布教につとめた。

その後、ヨーロッパの東西で修道制度は異なった展開を示す。東方では、個人での信仰を重んじる修道士は時に対立し、組織化されない民衆のいわば代弁者として機能した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki